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「今昔物語」 源頼信 (1)

この題名で、あれこれと雑感を記そうという次第で、古典の専門的訓練を受けてないので珍釈、奇釈もごめんこうむろうと。

さて、五百年前、千年前の関東地方はいったいどんな地形をしていたか。濃尾平野はどうだろうか。

本朝世俗部巻第二十五 「源頼信朝臣、平忠恒を攻めし語」

本朝世俗部巻第二十六 「美濃国因幡川、水出て人を流せる語」

前者は銚子から現利根川をさかのぼると内海になっていて、内陸にまで夥しい数の貝塚が多く残っている。縄文時代の丸木舟の出土も多いという。

木曽山脈、飛騨高地、両白山地から木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が、濃尾平野の西部に流れて、標高の低い地帯で合流するような形で伊勢湾に流れ込む。もし三川が一度に洪水を起こせば、濃尾平野西部の養老山地から眺める光景は凄まじいものがあったろうと推測できる。


ーーーーー 本朝世俗部巻第二十五より ーーーーー

今昔物語によると、源頼信が平忠恒の臣従の誓いである「名符」と「謝罪」の文を受けたのは、「常陸守」の任期中だということになっている。官暦によると、1012年に「常陸介」であったようだ。「守」は国司と呼ばれた地方官の長官で、「介」はその下の役職になる。ところが平忠恒の乱に手を焼いて朝廷が源頼信に鎮圧の命令を出したのは彼が「甲斐守」のときで、それは1030年の年だった。
今昔物語の話は、源頼信が常陸介であった1012年頃の話だろう。このとき京では藤原道長が実権を握り紫式部が中宮・彰子に仕えていた時期だ。
朝廷から地方の国に任命される国司(地方官)は、上位から守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)とされていた。国も、大国、上国、中国、下国と分け、派遣される地方官の種類と数も決まっていた。、頼信が介のときには、上官の守いたはずである。
平忠恒が広大な私領をもち私兵を養っていたのは上総と下総国であったが、両国とも守はいたはずであるが、何をしていたのか。武士が台頭する時代に下級貴族では太刀打ちできなかったことも多かったのだろうと思う。

(新釈)

 源頼信(よりのぶ)は朝廷から常陸国(ひたちのくに、茨城県)の地方官に任じられ、馬に揺られて京から東海の道を相模国(さがみのくに、神奈川南部一帯)までやってきた。ここまで来ると常陸国に行くには二つの道があった。湾の向こうの房総半島に渡るか、道を北にとって武蔵(東京北部埼玉県)、上野(こうずけ、群馬県)下野(しもつけ、栃木県)方面から常陸国にはいるかであった。湾の海岸沿いをは論外だった。荒川、入間川、渡良瀬川、利根川は全て湾に流れ込んでいて、下流の地帯は沼や湿地で雑木が茂っている。馬の道とは到底言い難い。房総半島はまるで島のようで、北には今より数倍も大きい霞の浦とタコの足のように内陸に入り込んだ内海が広がっていた。時代によっていろいろな呼び方をしていたようだが、ここでは香取海を選んでおく。
馬でやってきた頼信一行は台地を通る北へと向かった。この道は以前上野国の介として赴任したときに通った道であった。常陸国へは大回りではあるが人家があり、清水も湧きでる道だった。
 今回の常陸も前回の上野の赴任も、乳兄弟の藤原親孝(ふじわらのちかたか)が一緒だった。彼も武士であるが頼信には遠く及ばない。暇なときは囲碁を打ち、馬に乗って所領の見回りをするのが好きだった。
国府では着任と離任の引き継ぎが行われる。前任者の仕事が過怠なかったかの確認も行われる。その後解由状(げゆじょう)が前任者に渡って引継ぎ完了になる。
その間親孝は国府をでて付近を散策する。国ぶりの一端でも感じ取れればとおもい、地元の者を連れて出かけた。
国府のある石岡の少し南に行くと香取海の北端にでる。親孝は近江琵琶湖の風景を思い出していた。水辺には葦が生い茂り、漁を行う舟、物を運ぶ舟、渡しの舟が見られた。ここ香取海でも同じようであった。大きな違いは海とつながっているせいで干満がおきることだった。引き潮だったのか葦の根元がかなり露出していた。水中に浸かっていた部分が見えていたのだ。国府に戻る道には晩秋の青空に筑波山見えていた。
帰ってきた親孝に頼信は話しかけてきた。
「どうであった」
「琵琶湖とはまた趣が違いますな。」
親孝は水面がずいぶん下がっていたことを報告した。
「砂浜はどうであった。」
親孝は首を横に振った。
「葦ばかりが生い茂って馬も難儀するでしょう。」
どう軍勢を率いていくか。思っていた以上に困難を伴いそうだ。頼信の表情がそう語っていた。
「いつ頃をお考えですか。」
「まだ早い。冬は避ける。年が明けてからで良かろう。」
親孝も、平忠恒の事は京にいたときから聞いていた。私領を広げて兵を養う武士のは話は珍しく無かった。話には尾鰭がつくものだ。やや大袈裟に聞こえているのかもしれないと思っていた。常陸に入って数ヶ月もすると実際は噂以上でることがわかった。忠恒は郎党を多く養い勢力益々盛んであった。上総(かずさ)下総(しもうさ)の国を自分の思うがままに差配し、年貢も数年滞ったままだった。国司の主たる任務は治安の維持と徴税だ。火中の栗を拾うような者が、国司に選ばれる下級貴族の中にいるはずがない。財を蓄えようと考える国司では軽く見られる。上総と下総の守ではお手あげだろう。頼信が常陸介としてやってきたことは忠恒の耳にも入っていはずだ。様子見をしているだろう。しかし、朝廷から位階を賜り、つわものとして信頼されている頼信は、その威信を速やかに示すつもりでいた。

 下総から左衛門大夫、平惟基(たいらのこれもと)と名乗る武士がやって来た。初めて聞く名前であった。藤原親孝が知らせると、
「来たか。」
笑みを浮かべ待っていたかのように言った。
畏まっている惟基の前にでると、やや仏頂面に構えていた。 
「今日は何の事だ。」
「その事でございます。お聞きお呼びでございましょうが、あの忠恒めは上総下総でほしいままで守をないがしろにすること、言語道断でございます。多くの軍勢を集め、住処を香取海の近寄り難いところに構えております。これを討つには多く軍勢を集めて下総に行かれるが良いでしょう。」と注進した。
「左衛門大夫はいかほど集められる。」
「騎兵、歩兵あわせ三千あまりは、」
自信がある口調だった。頼信は一片の疑いもさしはさまなかったが、感心の表情も浮かべなかった。たださりげなく忠恒の居館の様子、人となりを訊いていた。親孝もそばで聞いていた。この惟基と忠恒の間にはいきっと何か因縁があるに違いない。口ぶりからして義憤だけとは思えない。加勢して軍功をあげての褒章狙いか、はたまた忠恒の所領狙いか、そんなところだろう。

 年が明けて春になると、頼信は香取海の漁師を何人か一度に呼び寄せた。採れた魚介類を持ってこさせたのは表向きであった。潮の満ち干について詳しく知り、信頼できそうな者を手の下に置いたのだった。香取海を吹きすさぶ北風がすっかり弱まり、陽射しもうららかになってきた。筑波嶺に霞がたなびきだして親孝はそわそわと落ち着かなくなってきた。頼信に決意の表情が見えていたのだ。長年付き添っていた親孝のみ勘づいていた。親孝は合戦となると血がたぎってくる。だがどのように攻めるのだろうか。忠恒の居館は香取海の奥まった所に位置するという。そこまでの道はあるのか。足場が悪ければ重い甲冑を身につけるかどうか。あれこれ考えるのだが今のところ左衛門大夫平惟基が持つ情報に頼るところが大きい。
 親孝はいついかなる時でも武具の手入れは怠ることはなかった。馬も歩兵も算段がついていた。気になっていたのは舟のことだった。香取海を渡るのなら必要なのは舟だ。だが頼信は舟を造れともおさえておけてとも支持してない。故意に話題から避けている。主人が口にしないことを親孝は話さないことにしていた。
「準備は調っておりますが、一つどうしても気になることがありまして、指示をお願い致します。」
頼信は黙ってうなずいた。
「頼信様、香取海ですが、どうやって水を抜きましょうか。」
親孝の問いかけに、頼信は答えた。
「なるほど、それはいい考えだ。ぜひやってくれ。」

 集った場所は鹿島神宮の浜であった。平惟基の言は大袈裟ではなかった。集結の場所に騎馬歩兵あわせて三千ほどの軍勢を勢揃いさせた。頼信の軍も京より連れてきた郎党、常陸国のものと併せて二千人ほどの軍勢になった。鹿嶋の白い砂浜に戦仕立ての軍勢はきらびやかで、弓も矢羽も朝日にきらめいている。香取海の空を見れば白い雲がたなびき目を落とせば波がきらめいていた。
親孝が、惟基に尋ねた。
「香取の社はどの辺りだ。」
「あちらの方に」
惟基の指した方向は向こう岸というにはあまりに遠かった。人の姿などけし粒にもならない。鹿嶋神宮と香取神宮の間はまさに海のごとしだった。
「忠恒の館はあちらの方に。」
惟基の指さした方向には陸は見えない。忠恒の居館は内海にさらに入った遠くに位置していた。
渡しに使える舟は一艘さえ見ることもない。忠恒が押さえて隠してしまっているに違いない。陸を遠回りすれば数日かかるが、その策しかないように思われた。
「やはり迂回ですね」
「親孝、香取の水抜きは」
親孝は苦笑いを浮かべながら黙ってしまった。
「親孝、あの者たちから聞いてまいれ。左衛門大夫、この辺りの者で忠恒を見知っている者を。忠恒に遣いを送る。」
親孝は手の下に置いていた老漁師から、潮が引き切る時刻を聞いてきた。
「お尋ねの潮のことですが、引ききるのは五、六、時間後だそうです。」
惟基承って、一人の男を連れてきた。
こちらの者は、大中臣成平(おおなかとみのなりひら)ともうし、代々ここ鹿嶋に住む武士であります。」
「まず忠恒の腹づもりだ。それを知らねば。館に行って会ってまいれ。戦う気持ちがないとわかればすぐ帰って来ればよい。そうでなければ舟のへ先を下ざまに向けておけ。それを確認してから渡ろうぞ。」
それを聞いた親孝、惟基は耳を疑った。お互い顔を見あわせて訝しげな表情を浮かべていた。果たして渡るとはどうやってだろうか。
成平を乗せた小舟が遠ざかっていく。
惟基は馬を下りて馬上の頼信の近くによった。他の武者たちもそれを見て次から次へとはらはらと馬から下り立った。その様子は風が草をないでいるように見えた。下り立つ音は吹く風の音のように聞こえていた。
馬上にあるは頼信ただ一人であった。

香取海の向こうから二艘の小舟が姿を見せた。一艘は遣いを終えた成平の舟だ。舟の舳先を頼信たちの浜の方に向け、止まっていた。もう一艘は次第に近づいてくる。浜に着くと降りたった武士が頼信の前でひざまずいた。
「忠恒の返し事をお伝えに参りました。畏れ多くも京の高名な武士であらせられる陸奥守様、当然すぐに参るべきではありますが、平惟基は先祖の敵であります。そ奴がいる前で馬から降りて跪くことは到底できません。」続けて「渡しの舟もなく、どうしてまいることができましょうか。」 と。
何を白々しいことをと思いながら、このまま帰してはなるまいと親孝は遣いの男を取り押さえた。
頼信はこのとき初めて存念を公言した。
「この霞の浦を回れば数日はかかる。それだけあれば逃げるにも守りを固めるのにも十分な時間である。舟も隠し、何もできないだろうと油断している筈だ。今日のうちに攻めてこそ、隙をつかれあやつは驚き浮き足立つであろう。」
聞いていた幾人かは、
「詳しいことは分かりませんが、やはり陸を回って攻めるのが良いかと。」
とこたえて言った。やはりと親孝は思った。初めての常陸国で勝手が違う。すぐには全幅の信頼までは得られない。元より頼信もわかっていることだ。しかし意見を変えることはなかった。
集った武者たちの前で、頼信は高らかに言った。
「この頼信、坂東の国は初めての赴任だ。当然地形も道も全く不案内だ。しかし先祖伝来の言い伝えがある。『霞の浦には浅瀬があって、ちょうど堤のように盛り上がり、幅も一丈(3m)で真っ直ぐとおっている。馬の腹ぐらいの深さだ。』今は一年で一番潮が引く日だ。その道はまさに今この時のためにある。いざ渡らん。軍の中にこの道について知ったものがいるか。その者にまず渡らせよ。頼信も後に続いて渡ろうぞ。」
たちまちに軍勢に伝わり、三名ばかりが名乗り出た。騎馬の武者はただ一人で、その名を真髪高文(まかみのたかふみ)と言った。
「仰った道は度々通ったことのある道でございます。先馬をお任せください。」
衣川 (きぬかわ)と小貝川が運んできた土砂は銚子から海に流れでる前に香取海の底に積もり長い堤のように連なっていたのだ。潮の引きが一番大きければ探しやすく渡りやすいのは道理であった。
高文は他の二人と協力して見つけると、彼の従者たちに葦をたくさん刈ってこさせた。それで深さを測り、突き立て目印にした。高文が先頭を切って進んでいく。五六百人ほど渡った後で頼信は渡った。
「頼信公は、香取海は初めてで我ら国の者さえ知らぬのに、どうやって知ったのであろうか、やはりきわめて優れた武士である」と、皆それぞれが言いあって畏敬の念を持った。
一方、忠恒は地の利を分かっていた。十中八九遠回りをして陸から攻めてくる。いざとなれば隠してある舟で逃げることもできると高をくくり、軍勢も十分には調えていなかった。
そこへ物見の櫓で警戒していた郎党が、慌てふためいて館に駆け込んできた。
肝を潰した声で、
「介殿はこの海の中の浅い道を通って、軍勢を引き連れてすでにそこまでやって来ております。どうしますか。」
と慌てて報告した。忠恒は思惑と違った事態に、
「これはもう攻撃されてしまうに違いない。今となっては打つ手なしだ。降伏するしかない。」と、観念した。
すぐに名符(みょうぶ)を書いて文差しに挟み謝罪文と一緒に守殿に送り届けさせた。
最後に浜に上がった頼信は、忠恒からの名符を受けとらせた。武士たちの注視する中高らかに言った。
「こうして名符と謝罪文を一緒に差し出したのは降伏したのと同じである。これ以上は軍を進め攻める必要はあるまい。」と言い、「速やかに帰るべきである。」
頼信が馬の方向を変えると軍も従い皆帰って行った。平惟基は無表情で従っていた。親孝は物足りなさを感じた。しかし一滴の血を流さずに鎮めたことは名誉なことであった。もし忠恒が裏切ればつわものの名誉を重んじる頼信は決して許さないだろう。
このことがあって、源頼信の名声はいよいよ高く、「言葉では言い表せないほどの素晴らしい武士である」と畏れられた。(了)


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