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未完の完【ダヴィンチのカルトンに想い馳せ】

遅ばせながら、明けましておめでとうございます。
2024年を迎える前に、制作中の絵を何とか一枚仕上げました。仕上げたと言うより、仕上がってしまったと言った方が正しいかもしれません。
と言うのも、その作品。
自分的にはまだまだ未完成だと思っていたのですが、ひとまず年内に一度、師事している先生に経過を見ていただこうと思って持って行ったらあっさりOKが出てしまったと言う、何とも呆気ない終わりを迎えた作品だからです。
先生から「悪くないよ。この辺でやめといていいんじゃない?」と言われた私は納得できず、この絵をどんな風に仕上げたいのか、何色を足していきたいのか伝え、自分の中に別の完成図があることを熱弁。私の思いを一通り聞いた先生は「そうかぁ」と残念そうに呟き、その後一言。
「ねぇ、未完の完って分かる?」と。
意味が分かるようで分からず、何も答えられないでいると、静かに口を開いた先生。
「ロンドンに行って、ダヴィンチのカルトンを見るといいよ」とおっしゃるのです。
「えー!ロンドン!?ダヴィンチ!?」といきなりのご指導にまたしても言葉が出ず…
だけど、ダヴィンチのカルトンは以前に先生から授業で教わっていたので、その場ですぐに絵をイメージすることは出来ました。

確かに、ダヴィンチのカルトンは凄い。

レオナルド・ダヴィンチ
聖アンナと聖母子のカルトンの一部

途中まで描きこまれた未完成の背景と人物達。
一見それは具象画に見えるのですが、不思議や不思議。ダヴィンチが凄すぎて、もはや抽象画になってしまっていると言う、ダヴィンチ史上最高傑作。
そんな凄い作品を見てきなさいと言う意味…

しばらく先生の話を聞いて理解したのは「未完成でも完成になりうる」ことと「いい絵を見る目を養いなさい」と言うこと。
ダヴィンチのカルトンは描きかけで、誰がどう見ても未完成。だけど、構図や色使い、マチエール、全てが完璧にキマっていて完成と言って良い程の出来。まさに先生の言った、未完の完なのです。
最後まで描くことが完成じゃない。
描き続けることで絵がダメになる場合もある。
せっかく良い絵だったのに、それを通り越して作品をダメにしてしまっている例がよくあると先生。
それは、良い絵を判断できる力がないから。
良い絵がどんなものかを理解できれば、描いている途中でその絵の1番美しい瞬間に気付くことができる。
先生から「描きたい絵があるなら、もう一枚別のキャンバスで描いてみること」「この絵は描き足したくなるまでしばらく置いておくこと。それでも色を足したくなるなら、それが描きどき」とのご指導をいただき、教室を後にしたのでした。

描いていた作品はアファナシエフの音。
帰宅後、もう一度初心に帰るつもりでアファナシエフの録音をランダム再生で聴き直す。
すると、今まで録音で感じていた音と印象が少し違って聴こえました。深く沈むと思っていた音が、実は結構上がることに気付く…沈む音の印象が強く、しかも深く沈むので「アファナシエフの音=沈む」と思い込んでいたのですが、よく聴くと音の上側にも立体感がある。
アファナシエフの公演レポでも「音の上下に立体感がある」「藤田真央さんそっくりの音が鳴る時がある」と書きましたが、今聴き直すと生演奏だけでなく、録音の時点ですでにそのように感じる曲が多くあったことに改めて気付きました。これは先生のご指導がなければ分からなかったこと。
あれから、別でもう一枚アファナシエフの音を描いていますが、自分の理想に辿り着けなさすぎて今後果てしない時間がかかると思われます。でもきっと、そんな簡単に描けるものじゃないのですよね。
これは全ての演奏者に言えることですが、最初の一音から最後の一音まで美しく奏でるため全身全霊で音楽に向き合い、幼少から人の何倍も努力して作り上げた自分だけの大切な音。私なんかが聴いて簡単に理解できるはずありません。演奏者以上の熱量で「その音を描きたい」「追い求めたい」と思い描かなければいけないのです。

「未完の完」の指導を受けてから、ダヴィンチのカルトンについて考える日が多くなりました。
果たしてダヴィンチは、未完成の中にある美しさに気付き意図的に描くのをやめたのでしょうか?
それとも、他に描きたい絵があって後回しになっていた?私と同じように絵の「描きどき」を待っている途中だった?
これは本人以外分かり得ないこと。
だけどいつか私なりの答えが出せた時、絵描きとしてさらに成長できる気がする…

ダヴィンチのカルトンに想いを馳せながら、今日も私はキャンバスに向かうのです。


アファナシエフの記事はこちら♪♪


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