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私の23年間の人生と、We are Buddies が交わるまで。

人生の転機。それは突然現れる。対峙の仕方は人それぞれだけど、私の場合は「波に乗る」という感覚。ぐるぐる悩んで迷った日々の延長線上に、急に光が飛び込んでくる。そこからは息つく間もないほど一瞬。気が付けば、迷いも思考も感情も全部どこかへ吹き飛び、ただ身体感覚のみを信じて飛び乗っている

最近は、大波が続いている。もうこの景色しか見えないと思っていても、日々は更新されていく感情も経験も全部、生モノだ。だからこそ、私は感情が動いたときは、文章を書いてそれを昇華していた。色褪せる前に、思い出せなくなる前に、ただ自分のためだけに。

だけど、今回はちょっと違う。少し頭を使って、過去の自分と未来の自分と、これまで出会った人、そしてもしかしたら遠く知らない誰かのために、自分のことを書く。ずっと逃げて、避けて、でも本当はやりたかったこと。自分の人生を振り返って、表に出して、前に進ませることをやる

第一波:大学院進学

子どもが好き。私が教育をやっていた理由はこれだけ。子どもたちに気付きを与えることも、選択肢や可能性を広げることも、私にとっては付随的なものでしかなかった。ただ隣にいる無償の愛を注ぐ愛でるたったこれだけのことをやりたかったし、それが許されてほしかった。もちろん、課題が山積みの教育界で、そんな無目的なことがまかり通らないことも、それだけでは子どものためにはならないことも分かっていた。

制度や枠に縛られ、疲弊し、対立し、ボロボロになっていく教育者たち。子どものことを思う気持ちは、誰しも同じなのに、報われず、志を捨て違和感に麻痺した人しか学校では生きられないなんて狂っていると思った。あるべき姿、方針、成果や数値での評価基準も人それぞれ。私はこのままだと、教育の世界で疲弊して潰れるだけだと思った。「教育とはなにか」「なにをもって『良い教育』なのか」を深めなければ、と思い立ち、なにかに突き動かされるかのごとく大学院進学を決めた

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そうして私は早稲田大学大学院教育学研究科に進学した。教育思想・教育哲学を専攻し、学問漬けの日々は、コロナ禍と同時に始まった。課題の山積と大混乱に拍車がかかった学校現場で新任教員として奮闘する同期たち。コロコロ変わる政策に、振り回される学校・保護者・子どもたち。セーフティーネットとしての学校教育の危うさが浮き彫りになり、国家に紐付いたイチ教員の情熱だけでは太刀打ちできないこともあるのだと外から痛感した

ここで1回底に落ちたと思う。何もできない自分と、何かしたい自分。でも、どこから何をしていいのか。世間が未曾有の危機に瀕する中、一人部屋に引きこもり昼夜逆転しながら、呪文のような論文と英語文献に追われる日々。「これを続けて何になるのか」と、自分で決めた道が信じられなかった。「今この瞬間だけを変えたくて、それができずに苦しいなら、研究には向いてない。すぐに辞めて他の道を探すべき」という言葉が刺さりすぎて、私は学問にも現場にも行き場がないのだと思った。だからこそ、両者の乖離を目の当たりにするだけの日々が悔しくて悲しかったし、双方へのリスペクトは羨望に近い状態で、今も身体にへばりついてる

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そんなぐちゃぐちゃの状態で、We are Buddies  に出会った。代表の愛梨さんの存在はもっと前から紹介してもらっていて、ずっと会いたかった存在。


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▼つなげてもらったときの「はじまり」のメッセージ

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東京に来てようやく会えたとき、そのままバディをやることになった。何も深く考えず、やっと子どもに会える、くらいの軽い気持ちで、私のバディ生活はごく自然に始まった

We are Buddies (WAB)は、オランダ発のバディプログラム(子どもと大人ボランティアが2人組のバディとなり、月に2回直接会って遊んだり話したりすることを1年以上続け、フラットで細く長い関係性を築くこと)を行っている。年齢や属性が異なる相手とも信頼関係を築き、登場人物みんなが力を抜いて、優しい気持ちになれる社会を目指している。

第二波:子ども留学@松濤ハウス

私のバディの相手は、5歳の女の子。月に2回、何も考えず、ただ目の前の瞬間だけに集中して遊ぶ時間は癒やしだった。楽しいなあという感覚では収まらず、人生に電撃が走ったのは、2021年の年明けすぐ。もともと愛梨さんがマイプロジェクト的に行っていたWABの前身となる「子ども留学」にかかわったことが契機だった。

子ども留学とは、Cift 松濤ハウスというシェアハウスで行われていた、親子や子どもが、フラッと泊まりに来て、様々な人びとと生活を共にする企画。

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親と子が初めて離れる瞬間に立ち会い、一緒に生活する。共に食べ、遊び、寝る。特別なことは何もないのに、子どもたちと寝食を共にするだけで、一生忘れられない様々なドラマが繰り広げられた

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喧嘩が絶えなかった兄妹が助け合う瞬間

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子どもたちが自分の感情と向き合い、それを紡ぎ直そうとする瞬間

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親以外に信頼できる人に出会えた、安堵と自己解放の瞬間

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普段は子どもと交わることがない大人が、身に纏う鎧を剥がし、ありのままの姿に還る瞬間

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家族が開放的になり、心地よい関係性・距離感を取り戻していく瞬間

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どこを切り取っても、その場の光景とみんなの表情が鮮明に思い出せる。事前に狙って予想していたことは何一つない。全部、暮らしのなかで偶発的に起こった出来事たち。ああ、私はこれがやりたかったんだ、と気付いてしまった。子どもたちに何かを働きかけ、変化を強いるのではなく、導くでもなく、ただ機会を提供し、近くで眺めていたかっただけ。本質に近い存在である子どもが、そのままの感性を持ち続けられるように。それだけを願っていたのだけど、そこに利害関係がなく愛ある大人が携わることで、無数の相互変容が生まれることを実感した。

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そこから私はWABに事務局インターンとしてかかわり始めた。「大人」と「子ども」という異なる属性の普段交わることがない存在が、出会い、共に時間を過ごすことで生まれる相互作用にもっと触れたかった。そして「家庭」や「家族」という、第三者が介入しにくい領域にもっと立ち入ってみたかった

第三波:幼い頃の自分との出会いとリトリート

ずっと探していた本当にやりたいことと出会ってしまってからは、さあ大変。心揺さぶられる「陽」の瞬間があるということは、心の蓋が開けられることを意味していて、これまで閉じていた自分の「陰」の部分とも向き合わざるを得なくなったのだ。

さて、どこから書こうかな。昔に遡るとどうしても長くなってしまう。

わたしは元々めちゃめちゃ敏感で繊細で脆い子どもだった相手のことばかり考えて、自我や欲が全くなかった。人の顔色を伺うのは当たり前で、学校では大体どのグループの友だちとも仲良くやれたし、何か買ってあげると言われても欲しい物は思いつかず、神社でのお祈りではいつも「誰も死にませんように、世界が平和でありますように」と願っていた。さすがにこの願い事は人に話したことがなかったけど、実は今でもあんまり変わっていない。

興味関心からではなく、漠然とした不安と恐れから、常に周りの人や物事にアンテナを張り続けていた。当然、心安まることは少なく、毎日身体が重たく、頭痛が続いた時期もあった気がする。

そんな生きづらさを私よりもいち早く察知したのが両親だった「娘の心を守らなきゃ」と、それしか考えていなかったようで、破天荒な母は市役所の福祉課と教育委員会に乗り込み、私が3年生になったときには、小学校に新しい学級が1つ出来た。だけど、その学級に通うのは私ではない。

1学年1クラスの小さな地元の公立小学校に2つ目の特別支援学級が設置されたのだ。そこは私の双子の弟たち専用のクラスだった。

私は、3人兄妹の長女で、下には双子の弟がいる。二卵生のため瓜二つというほどではないが、可愛いくて仕方がない。ふたりとも最重度知的障害・自閉症・てんかんを持っていて、身辺自立はできないし(お風呂は一人で入れないし、トイレは最近ようやくかな?というレベル)、今もほとんど喋れない。だけど、そんなことは関係なくて私はいつでもコミュニケーションをとるし、弟たちのことが大好き

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あんなに繊細で今にも壊れそうなほどだった私が、弟たちの障害に関しては人目を気にしたり、悩んだ記憶はほとんどない。それどころか、自閉症と知的障害の違いを教員採用試験の受験勉強で初めて知るほど、私の障害の知識は酷いものだ。今はさすがに少し勉強してみたりもするけど、未だに何がどこから障害かよく分からず、正直障害名はすぐ忘れてしまう...。弟たちは一人の人間であるし、誰しもみんなそう名前をつけたり、障害のレベルや階層で分けられたとしても、それは便宜上なだけで、本質ではないはず

こんなにも無頓着で脳天気に生きられるようになったのは、母の直観と行動力が凄まじかったおかげ発作やパニックが日常茶飯事の弟たちは、本来ならば、公立小学校の既存の特別支援学級には通えなかった。しかし、特別支援学級は2人から作れることをいいことに、母は行政に訴え続け、私と弟たちは、同じ小学校に通うことになったのだ

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全校生徒が家族のような小規模の学校では、「障害をもった弟がいることを隠すか隠さないか」なんて苦悩はできず、全てがオープン。私の友だちは私と同じくらい弟たちのことを可愛がっていたし、脱走して行方不明になった弟を見つけて連絡をくれたのは警察でも、両親でも、学校の先生でもなく、地域の人だった。両親は、私を誰かに預けるよりも、私の友だちを家に呼び込むことを意識していたそう。私が生きる世界と弟たちが生きる世界の分断を防ぐどころか、とことんごちゃ混ぜにしたのだ。休日と長期休みは、キャンピングカーに私と弟の友だちたちを乗せ、子どもがウジャウジャな状態で、海・川・山に出かけるのが我が家のお決まりだった。

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一筋縄ではいかないこともたくさんあったはずだけど、私と弟たちの周りはいつも愛ある人に溢れていた。今振り返れば、究極のインクルーシブが実現した日常を送っていたと思う。そんな豊かで愉快で温かな環境で、私はぬくぬく育ち、せっせと大らかさを磨いていった

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そんな自分の生い立ちは、WABの活動にリンクしまくった。様々な家庭を直に見て、保護者の方の苦悩や葛藤に触れるうちに、自分の育った環境の特殊さを自覚した。そのとき私は、突然超インパクトの強い原体験を手に入れてしまったのだ。多胎家庭(双子や3つ子など)や障害をもつ子どもがいる家庭では、その当事者のきょうだいたちが寂しい思いや我慢をすることが多く、心のケアが課題とされている。私は多胎児の姉、障害児の姉として、そのどちらにも当てはまる、ダブルの意味での「きょうだい児」だった

きょうだい児への公的なサポートが存在しない現状において、WABの活動には、きょうだい児のお子さんが多く参加されている。これまで弟たちの存在が自分に影響しているなんて考えたこともなかった。それなのに、必要以上に大人びて、ぎゅっと心を閉ざしてしまいそうな子どもたちの存在を間近で感じると、いつかの自分に同化して涙が止まらなくなることがたくさんあった自分の感情に過度に鈍感で、何事にも干渉せず入り込まず、一歩引いた距離感を保つ、それはまさに私も同じだった

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あれ、私ってこんなに弱かったっけ。こうならないように育ててもらったのに…。いろんな家庭と出会い、その変化に携わりながら、私は自問自答を繰り返し、これまで封じ込めていた幼き自分(インナーチャイルド)を癒すことに取り組んだ

第四波:修行期間と現在

今まで知らなかった自分とたくさん出会い、自分の感情に敏感になる練習をした。はじめのうちは、ようやく自分の人生が1本の線となり、全うするべき使命を見つけた気がして、目に映る世界が色鮮やかになった。しかし、いつの間にかその彩りは薄れ、違和感が募るようになった。ちょうどその頃は、しんどい思いをされている保護者の方との出会いが続き、子育てや家族の苦悩に敏感だったこともあり、私が自分の生い立ちを話し始めるだけで、誰もがぐっと身を乗り出し食い入るように話を聞いてくれた。自分の言葉一つで、相手の目の色、場の空気がこんなにもガラリと変わることが「怖い」と思った。人を操る武器を手に入れてしまった気がした。

生い立ちは私がWABにかかわることの信頼性と安定感を高めてくれるけど、でも、それは過去のこと。今の私を形成していることに変わりはないけれど、それにすがるのは気持ち悪かった。弟たちありき、両親ありきの私ではない。過去を前面に出すのではなく、自分のなかに取り込んでみると、WABとの接点は育った環境以外にもたくさんある。愛梨さんをはじめ周りの人に協力してもらいながら、初めて自分をさらけ出す真剣対話を重ねて、そう気付いたら、とても楽になった

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すると、WAB以外のことに時間を使う選択肢が綺麗さっぱり消えた。それまでは漠然と就活が頭によぎっていたけど、もうWAB以外の選択肢は考えられず、他の進路と迷ったり比較することができなかった。「大きな決断をした」という実感すらない。ただ、目の前の波に飛び乗るだけ。

とはいえ、WABは立ち上がって1年ちょいの団体。まだ基盤が整いきっていないなか、私のフルコミットを受け入れるキャパはない。しかも、私は社会人経験が皆無。タスク管理もタイムマネジメントもパソコン作業も全くできない。即戦力はおろか足を引っ張ることしかできなかった

それなのに、愛梨さんは受け入れてくれた。インターンを始めた頃は「代表アシスタント」という肩書きで運営にかかわっていたが、愛梨さんは私との対話を重ねた後に「自分にアシスタントはいらない。WABの運営は自律分散でコミュニケーションは密の2人体制にしよう」と言った。凄まじいことだと思う。「WABの規模拡大のスピードが速まっただけ。2人なら出来ることも増える」と言い切ってくれる。

ここからWAB運営2人体制を整えるための、私の修行プログラムが始まった。タスク管理、タイムマネジメント、断捨離、ファシリテーション、報連相、自分をさらけ出すこと、勇気を出すこと、NOを言うこと、心身両面から自分を知ること、課題解決…

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日常生活全てが修行になったザ・スタートアップ的な超体育会系の毎日。できない自分に何度も向き合い、初めて何かに本気になった。私以上に私のことを知り尽くした愛梨さんだけでなく、バディのみんなやWABの周りにいてくれる方々がそれぞれの得意を生かして私の能力開発プログラムにかかわってくれた

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保護者の方は心の底から応援してくれるし、子どもたちはいつも真っ直ぐ向かってきて励ましと癒やしをくれる。愛あるみんなに囲まれて、やりたいことをとことんやり、できることを加速度的に増やしていく日々。こんなに恵まれていることはない。かかわってくれる人、気にかけてくれる人を思うだけで、すぐ涙が出ちゃう。蓋をしていた感情はもう塞いでいられずダダ漏れ。毎日泣いたり笑ったり本当に忙しい。

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今後に向けて

WABに出会って1年が経った。この1年で私の人生はとんでもなくぐらついた。変化が大きい自分自身と同じくらい、WABも日々変化している

現在活動中のバディズは49組となり、活動地域は都内だけでなく埼玉・千葉・神奈川まで広がった。代官山やまびこクリニックさん経由でお子さんを紹介いただき、院長の千村先生にアドバイザー的にかかわっていただいている。

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学校法人未来学園さんとの連携により、群馬ブロックが立ち上がった。愛梨さんはあちこちからイベントのゲストに呼ばれ、私も一緒に専門学校で学生さんに向けて講義もやらせていただいている。そして、来月からは愛ある不動産会社さんとのご縁で We are Buddies ハウスという拠点ができ、様々な子どもや家族と暮らしや生活を通したかかわりが始まる

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そして、私はあと5ヶ月で大学院を卒業する。今は、大学院の授業と修士研究・私立小学校との共同研究以外の時間は全てWABのことをやっているが、それが完全にフルコミットになるでも、きっといつだって時間は足りない

最近のWABは、口コミのみならず、ネット検索からなど、これまでつながりがなかった方からも問い合わせを多数いただき、マッチングまでお待ちいただいている状態。この活動を成り立たせていくため、そして必要な人に届けていくためには、共感してくださる方からのサポートが必要不可欠だまだまだやりたいことが山ほどある

だから私は、今日も明日も泣いて笑って、この尊い一瞬を刻みつけ、毎日を駆け抜けていく。過去の自分も、現在の自分も、未来の自分も、ずっと一緒に共存しているんだ。何があっても、もうきっと大丈夫。世界は、こんなにも愛と優しさに満ち溢れているのだから

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WABを基軸に繰り広げられる、愛おしい日常については、こちらのInstagramで綴っています。

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We are Buddies は、みなさまからの寄付で成り立っている活動です。定額の場合も、一度きりの場合も、1,000円から応援いただけますので、こちらのウェブサイトよりご協力いただけると、とてもとても嬉しいです。

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