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逆上がりができなかった私へ

小学生にとって、『逆上がりができるかできないか』ということはかなり重要だったように思う。

私は、逆上がり以前に鉄棒自体が苦手だった。鉄の棒に体重を預け、足を浮かせて回転する。この単純な運動ができないのだ。理由はもちろん怖いからである。日常生活ではなりえない体勢になるのだから!石橋を叩いて渡ることに幼少のころから定評があった私に、そんなアクロバティックなことはできない。

小学二年生のころ、体育の授業で本格的に逆上がりが取り上げられた。次々とクラスメイトが逆上がりを成功させる中、私は逆上がりはおろか、前回りさえもできなかった。ぐるぐる回る同級生を横目で見ながら「よくそんなことができるな~」と思っていた。

まあ別にいいのだ。鉄棒なんて、逆上がりなんてできなくても生きていけるのだから。無理して怖い思いなんてしなくてもいいではないか。体育の時間を適当にやり過ごせば、私の仕事は終わりである。

と思っていた。

当時の担任の先生も「逆上がりなんてできなくてもいいよ」と言ってくれた。(私があまりにも鉄棒ができなかったから、そのように言うしかなかったからだと思うが、以来その先生のことはとても好きになった)

担任の先生の言葉に納得して以来、私は特に鉄棒に近寄ることもなく、「高校生くらいになれば体育で鉄棒なんてやらなくなるよね・・・!」と希望的観測を抱き続けていた。

しかしそうはいかなかった。小学四年生。私に試練が訪れる。

担任の先生が、鉄棒の指導にかなり熱心だったのだ。

クラスに10人ほど残っていた『逆上がりができない人たち』はすぐに集められた。おなじみのメンバーである。ああ、補助板まで用意されているではないか。

「鉄棒が得意な子も一緒に教えてくれるって??逃げ場がないじゃない!そういうのほんとに要らない!逆上がり、できなくてもいいんじゃなかったの??!」なんて言えるわけもなく、私は黙って無駄に長い予備動作をし、補助板を駆け上がる。

周りを見ればぐるぐる回る同級生。私たちは一番低い鉄棒で逆上がりもどきを続けるばかりである。惨めだ。

休み時間も半ば強制的に鉄棒の練習に当てられる。教室の隅でもそもそと絵を描いて休み時間を過ごす私にとっては、避けたい事態である。

逆上がり強化週間が続いていたある日の昼休み。私は例に漏れず逆上がりの練習をしていた。

その瞬間はあっけなかった。体が鉄棒に引き寄せられ、足が空中で弧を描いた。着地。

「出来たやん・・・!」

あれほど『逆上りなどできなくてもいい』と豪語していた私だが、できたら嬉しいものである。周りで練習していたクラスメイトも「おめでとう!」等と言ってくれた。できたことへの嬉しさと、慣れないクラスメイトの反応に恥ずかしくなって私はヘラヘラ笑っていた。

あるクラスメイトが私にこう言った。

「1回できたら100回できるで」

当時は「なんやそれ」と思った。小学生のくせに何言ってるん、と。しかし今思えば真理だったのだ。

できないことはたくさんある。それは自分に必要なことだったり、やらなければいけないことだったり。いろいろな言い訳を作ってどんどん先延ばしにする。

跳び箱なんて。二重跳びなんて。側転なんて。倒立なんて。数学の応用問題なんて。阪大の入試問題なんて。別に、できなくてもいい。生きていける。

しかし、今の自分では絶対できないと思うことでも、1回できたら100回出来るのだ。

私は単純なもので、そんなことでもできたら嬉しいのである。解けなかった問題が解けたことも、逆上がりができたことも、同じ。

一回目への道のりは長い。努力も忍耐も必要だ。それは挑戦かもしれない。途中で無駄なことだと思ってしまうかもしれない。

逆上がりができなかった私へ伝えたいのは、「1回できたら100回できる」ということのみである。出来たら絶対嬉しいよ。

一回目を乗り越えろ。










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