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上手に紙ヒコーキが飛ぶために

どうしたら上手に紙ヒコーキが飛ぶかを考えたい。
そのために、まずは「言語化」ということの話をしようと思います。

国語教育界隈にいるとよく聞く言葉ですから、これについて自分の意見を明かしておくことは一つ意味があることのように思います。

「言語化」という言葉はいつから使われるようになったのでしょうか。というのも「言語化」という言葉の日常的使用の歴史はそれほど古いものだとは思えません。自分の祖母や両親、恩師の口からこの言葉が発せられるのを耳にしたことはありませんし、私の過去の読書体験に「言語化」というワード検索をかけてみても、「検索条件に一致する項目はありません」と表示されます。

正攻法でいくとここで一度調べをかけて「言語化」という言葉の使用が一般化された背景を論じるべきかもしれませんか、そんなこと私がわざわざしなくても誰かがしていると思うので飛ばしますゴメンナサイ。

あくまでも個人的な経験に沿って申し上げると、「言語化」という言葉を耳にし、また意識するようになったのは2005年頃のことでした。その頃の私は競技スポーツの世界に首までどっぷりとつかっており、競技スポーツのプレーヤーという視座から世界を思考していました。スポーツプレーヤーというのは24時間常に筋肉や関節、呼吸に注目し、その総体としての身体が世界の一座標に位置していることを意識します。私はバスケットボールを専門としていましたから、私という身体と世界との如何なるかかわりあいのもとでボールにエネルギーが加わって数メートル先のリングにそれが通るか、ということが命題としてあったわけです。このような身体活動はまずもって非言語の世界で生起します。スポーツ体験は原理的には非言語の世界で完結するのです。そこから、競技スポーツにおいては良いプレーの再現性を高めるために非言語体験を分析しようとします。たとえば完璧なシュートを決められたときに共通する「感覚」がある、というようにまずは知覚するわけです。そしてその感覚を今度は「言語化」してみようと試みます。易しいのはオノマトペです。「手首がふにゃふにゃにリラックスしている」とか、「ジャンプした直後にクンッという間がある」とか。その後更にその感覚を詳細に言語化しようとするわけです。スポーツの世界で「一流選手はみな言語化がうまい」と言われるようになったのも2000年過ぎてからではないでしょうか。あくまでも私の感覚ですが。

そんなことで、原理的に非言語活動であるスポーツ体験を分析しようとする試みの中で使われるようになった経緯が私にとっての「言語化」という言葉の出会いでした。なんなら当時の私はスポーツ専門用語だと思っていた気さえします。そして身体感覚を分析する過程で使われる「言語化」という言葉にはそれなりの必然性が感じられ、その言葉を使うことは非常に理に適っているように思えました。

だから、国語教育の世界で「言語化」という言葉を頻繁に見聞きするようになったとき、なるほどなという合点と共に幾ばくかの違和感を覚えたものです。合点というのはつまり、言葉を扱う国語教育の世界で「言語化」が重要であることは言うまでもないということです。そして違和感というのはつまり、言葉を扱う国語教育が「言語化」を目的化することに対するそれです。「化」というのは「化ける」ということです。つまり「言語以外のなにかを言語に化かす」ということです。では、言語を対象とする国語教育における「言語以外のなにか」とは何か。それはあまり問題にされていないような気がするのです。

しかしながら、教師として曲がりなりにも教壇にたつというむず痒い(私は先生と呼ばれることに未だに慣れておらず恥ずかしいのです)仕事についていることから、生徒の保護者の方から度々相談されることがあります。すなわち、「うちの子話がうまくなくって。家でしゃべってても何が言いたいかわからないんです」とか「うちの子シャイだからしゃべるのが苦手なんです」とか、そんなことです。そんな相談をされた当初は、あら私人望があるのかしら、お母さんたちからそんなプライベートな相談をされるなんて、とか思ったり思わなかったりしたものですが、何を隠そう私が国語教師だから保護者の方はそんな相談を私に持ち掛けたのでしょう。人望なんて勘違いおこがましくてゴメンナサイ。どうやら保護者の方は、国語が上達すれば人に上手に説明をることができるようになったり、積極的に人に話しかけることができるようになる、つまり「言語化」がうまくなると期待しておられるようです。いや、有難いです。これは国語という一科目が単なる一科目にあらず、社会生活の基盤を成す土台を形成する能力を養う科目として認めて頂いているということですから。なにはともあれこのような体験を複数回重ねることで私は、国語教育で使われる「言語化」という言葉が、個人の脳の中にある感情や意見などの可能態が意味を持った音としての現実態となって外の世界に発せられることを「言語化」と呼んでいるのだろうと理解したのです。

そう一応は理解したものの、次に困ったことは、国語力のある子どもが必ずしも「言語化」が上手になるとエッヘンと胸をはって言えないことです。いや、これをお読みの方の中には「国語力=言語化」だろうとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。それに対しては私も思うところがありますが、国語力とは何かを話し合おうとすればこれまた別のテーマになりますので、以前の私の書いた「国語力というけれど」という記事に譲ることにしてここでは割愛します。

実体験をお話しますと、現在進行形で私が直接国語を教えている生徒は9才から14才まで合計60人弱くらいいます。その中で、やはり14才の生徒たちが読み書き発言のどの点から見ても国語力が高いわけですが、さらにその中でも舌を巻くほどの生徒がいます。文章の細部を読み込んで物語に隠された作者の仕掛けに気づき、また論説文の論理の齟齬を指摘し、それを他の生徒に説明することができ、自身も下手な大学生よりもよっぽど上手な文章を書きます。この子はどう見たって国語力が相当高いレベルにある。

ところがコインには裏表が必ずあるとでも言いましょうか、彼は自分自身の内面について話そうとすると途端に視線を外し口籠るようになる。またお父さんお母さんの前ではだんまりを決め込む。たまに堰を切ったように発言することがあっても、言葉はまるで失敗作の紙ヒコーキのように不安に宙を舞って空しく着地するものだから、本人もやるせないような表情に曇ってまた黙り込む。

 このようなことは年齢にかかわらず思い当たる体験を私も皆さんも持っているのではないでしょうか。この人の前では心の中に思っていることを難なく言葉にして話すことができる。自分でもこんなに饒舌に話せるのが不思議なくらい。だけどあの人の前では私の頭の中は言葉があんまり浮かんでこなくて、もし言葉が浮かんだとしても喉に何かが詰まったみたいになってうまく言葉が出てこない。と、たとえばこんなふうに。 

 言語化は他者に自分の内面を開いて届ける行動であることを考えると、その他者の態度に「言語化」が左右されるのは当然のことでしょう。批判的な他者を目の前にしたら「言語化」は緊張を帯びるようになります。自分はこの発言をしたら批判されるのではないだろうか、という不安は多かれ少なかれスムーズな「言語化」の妨げになります。周囲の人物が皆自分の「言語化」されたものに反対すれば、自分の考えは間違っていると判断して「言語化」そのものが停止されることも考えられます。一方で肯定的な他者を目の前にしたら、「言語化」は水を得た魚のような勢いと自由をもって放たれることになるでしょう。そして周囲の人物が総じて自分の「言語化」されたものを肯定すれば、「言語化」はますます勢いを得ていくことになるでしょう。

 つまり、「言語化」の質は周囲との人間関係に起因する心理的な要因が非常に大きいということです。私は国語教育は半分は心理サポートだと思っています。子どもが、「ここではどんな発言をしても大丈夫なんだ」と思うようになれば、黙っていても子供の方から話し始めます。そういう意味では、国語教育というのは「国語を教える」という種植え作業の前に、「言語化が許されるのだ」という土壌を耕す作業が重要なのだと思います。その土壌の上に、「言語化」という技術は育ちます。

 「言語化」は国語の領域だけで成立するものではなく、心理学、引いては言語学や現象学にまで関連します。自分が使っている「言語化」という言葉が、長いプロセスと幾面を持つそれのどのポイントを指しているのか、国語教師としてはそこの解像度を上げようとする態度にも意味があるように思うのです。

 昨今職業は細分化し、私のようなステレオタイプな国語教師だけでなく、言語化トレーニングの専門家、家庭学習サポートの専門家、あるいはもっと広くライフコーチングの専門家もいらっしゃるでしょう。先の読めない世界を生きる子どもたちにかかわる立場として、そのどれもが非常に重要なポジションであって、私はそのすべての専門家に心から敬意を示し、知り合って意見交換をしたいなと常日頃思っています。私も今後、国語教師という肩書を手放して別の肩書を背負うこともあるでしょう。いずれにしても、「言葉」と「言語化」というものを敬虔に謙虚に向き合い、たくさんの人たちとシェアしていきたいと思っています。

 私たちは批判的なコーチでも審判でもなく、風でありましょう。子どもたちの飛ばした紙ヒコーキが悠々と飛ぶための。

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