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今日ときめいた言葉176ー「日本社会を映す匿名とぼかし」

(2024年7月14日付朝日新聞 日曜日に思う「日本社会を映す 匿名とぼかし」
編集委員 宮地ゆう氏の記事から)

日本で取材をしていると「名前はちょっと…」という人が多いことに気づくそうだ。これは外国のメディアも同じように感じているようで、英国のエコノミスト誌アジア支局長(前職はモスクワ特派員)は、

「2021年の総選挙の時、投票所の外で支持政党などを聞いたら半分以上の人が実名を明かさなかった。驚きました」これはロシアと同じくらいの割合だそうだ。

また、シンガポールのストレーツ・タイムズ誌の日本特派員は、テレビの映像が奇妙に映ると言う。

「人の顔や背景などにここまでぼかしを入れる国は見たことがなかった」と。

これには私もずっと違和感を感じてきた。ニュースでは人々の足しか映さない映像ばかりだ。また、デモや集会に参加したがらない学生は「顔が撮影されて後々厄介なことが起きたら困るし、それが元で就職で不利に扱われるかもしれない」などと話し、見えない何かを恐れて萎縮している。

SNSの世界でもX(旧Twitter)の利用者がアメリカに次ぐ2位の日本だが匿名で使っている人が約7割。米、英、仏、韓国などでは3〜4割程度だそうだ(2014年版情報白書)

要因の一つとして、2005年に施行された個人情報保護法の導入が匿名社会を促進させ、過剰な萎縮が生まれたと言う。私の働いていた学校では、同窓会名簿の作成が中止になったり、家庭の電話連絡網がなくなった。学校案内を作成するにあたっては自校の生徒ではなくモデルを使っていた。何か問題が起きると面倒だからと。

長年報道の現場にいるジャーナリストの金平茂紀氏は、「誤った法解釈で過剰な匿名化が進み、社会の健全な機能を推進するための公共の概念が失われている」と話す。また、「言葉は、それを誰が発したのかという情報と結びつくことで、重みと責任が生まれる。僕はそこに、言葉の力があると思っている」とも。

匿名性というのは日本人や日本社会と親和性があるように思う。世間の動向を常に注視し、周りの反応が気になってしょうがない国民だから一人では声をあげることを躊躇する。でも自分が特定されないとわかれば安心して、日頃から鬱屈した思いを発散することができる。

鬱屈した感情は悪意の言動となって見えない他者への誹謗中傷やバッシングに向かう。結果そのことで傷ついた人の自殺が絶えない(そんなことの繰り返し。卑怯な人間の言動で死ぬなと言ってあげたい。実に痛ましい)

日本社会のこの強い同調圧力は個を萎縮させ、自由に発言したり振る舞うことを抑制するーつまり非言語による隠れた説得(hidden persuasion )が働いている。忖度も同じ土壌で生まれたものだと思う。自分の意思とは関係なく、先回りして相手を推し測って相手の望むように振る舞うことだから説得される前に自分から相手に従ってしまうことだ。

学校では「隠れたカリキュラム (hidden curriculum)」が働いているというのは、教育学者の西郷南海子氏である。西郷氏の小学生の息子の自由研究のことで以下のような興味深い事例を書いている。

(息子さんは夏休みの自由研究として各メーカーごとのチョコミントアイスの比較を行ったがそれを提出したくないと言ったそうだ)その理由は息子さん曰く、

「自由研究は自由すぎても怒られるし、自由じゃなくても怒られる」と。

西郷氏は「大人の一人として、申し訳ない気持ちになった。空気を読んで『この程度の自由が求められているんだろうな』と先取りする行動パターンは、就活でも仕事でもずっと続いていく。私たち大人に染み付いてしまった処世術が、こんな小さい時から・・・と」語る。

この教育学でいうところの「hidden curriculum (隠れたカリキュラム)」は、言語化されていないが、子供が暗黙に従わなければいけないと感じていることの一つだそうだ。子供たちは「学校からある程度の子供らしさが求められているが、度を越しては行けない」と薄々感じているのかもしれないと。こんな風に感じてしまう子供の心。外国の子供にもあるのだろうか?

再び金平氏のエピソードである。自動車会社に勤めるロシア人にウクライナ侵攻について尋ねたところ、政府への批判を語ったそうだ。金平氏は彼の身の安全を心配して「匿名の記事にしますか」と聞いたところ「匿名では意味がない」と答えたそうだ。

匿名でなければものが言えないということは、日本人はまだ両足で立って自分の意思が表現できるほど自立していないということだろうか。近代以前から存在する世間にいまだにとらわれていて、近代の産物である民主主義や言論の自由を標榜しても我々の感情には根付いていない。

マイケル・サンデル氏は議論する力を身につけることを推奨している。ソーシャルメディアは、似た考えの人ばかりが集まる仕組みになっているため議論には適さないと言う。そして、その役目を負うのは教育であると。



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