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”セントルイス・ブルース”ー「生きていたいと言う希望」であり、「人間であることを自覚させてくれた」曲

                        (写真はセントルイスの風景)
https://youtu.be/xte8OH2W9iM

(YouTubeから転載)

NHKドキュメンタリー「世紀を刻んだ歌2 セントルイス・ブルース」から

この有名なジャズの名曲“セントルイス・ブルース”は、1914年にC.W.ハンディによって作られて以来一世紀以上にわたって世界中で愛され続けている。2002年時点で録音回数は1500回に及ぶという。

ハンディの長い放浪生活、貧困と差別の中から生み出されたこの曲そのものがすでにドラマである。放浪生活のあと、セントルイスにたどり着き、文無しとなりミシシッピー川の橋の下で野宿をしていたという。


ゲートウェイアーチ セントルイスのシンボル
未開の地西部への出発点を記念して作られた

その後地方で娼婦の施しを受けて暮らす中で、娼婦のつぶやいた言葉、

「あいつの心は海に投げ込まれた石のように冷たくなった」

に着想を得て一晩で曲をつけたという。この曲には放浪生活の中で耳にした数々の黒人の悲しみの歌ー労働歌や黒人霊歌ーのエッセンスが盛り込まれている。
(彼は耳にしたそれらの歌を譜面に残していた。そのことがこの曲の誕生につながったと言われている)

そして人生でもっとも苦しい日々を送った街セントルイスにあやかり、このタイトルをつけたという。セントルイスの人々はこの曲を街の誇りだと言っている。この街のタクシーの運転手は以下のように語っている。

「私たちは差別の中に生まれてきた。だから音楽しか生きる支えがなかったんだ。ハンディは差別の中で歌を作った。立派なミュージシャンだよ。彼の歌に黒人は救われたんだ」 


ドキュメンタリーはこの曲にまつわるいくつかのエピソードを軸に展開されるのだが、私が最も衝撃を受けたのは日本のエピソードであった。

「浪曲セントルイスブルース」川田義雄

YouTubeから転載

このレコードが第二次世界大戦下、硫黄島でアメリカ軍と戦っていた日本軍の壕の中から発見されたことである。

硫黄島と言えば今大戦の最も壮絶な戦場の一つである。守備兵力20,933名のうち95%の19,900名が戦死あるいは行方不明になっている(wikipediaより)

アメリカ軍の艦砲射撃で摺鉢山の形状が変わってしまったと言われるほどの砲弾を受けていたのである。いまだ一万以上の遺骨が収集されていないという。

あまりにも有名なシーン(rekishi-memo.netから転載)

そんな日本軍の隠れていた壕の中から上記のレコードが発見されたことに深い感慨を覚えた。壕には兵士はなく、たくさんの遺品が残されていたという。持ち主は今もわからない。

このレコードは、曲の作曲者ハンディの元に届けられ今も家族により大切に保管されている。ハンディは、ことのほかこの日本版セントルイス・ブルースが気に入り、よく聴いていたという。そして次の言葉を残している。

「これは敵も味方もなく同じ歌が聴かれたことを物語っているかけがえのない一枚なのだ」

さらに、ドイツとソ連のエピソードも胸を打つものであった。

ドイツのヒトラー政権下では、ジャズは禁じられ徹底的に弾圧された。そんな中で、弾圧を受けながら3人のジャズマンがそれぞれ演奏を続けた。

そのうちの1人ユダヤ人だったココ・シューマンは、チェコのテレジン強制収容所に送られたが、そこで演奏活動を許されバンド=ゲットー・スウィンガーズを結成して収容所の人々のために演奏をし続けた。

ジャズは「自由の象徴」だったという。その演奏を楽しみに聴いていた8歳の少女が、後年以下のように語っている。

「音楽が人間であることを自覚させてくれた」

そしてココ・シューマンは、

「ジャズのおかげで生きていたいという希望が持てた。セントルイスブルースは一番好きな曲だった」

と言っている。以下は、2017年にテレジンを訪れた時の写真である。テレジンはハプスブルク家のマリア・テレジアから名付けられている。元々はオーストリア帝国の要塞であった。

テレジン収容所の墓地
木製ベッド
洗面所
テレジン収容所はアウシュビッツなどの絶滅収容所に送られる前の中継地だったようである


ソ連で活躍したエディ・ロズナーは、ヨーロッパジャズの金字塔と言われたポーランド人だが、ナチスの弾圧を嫌いソ連のモスクワに移り住んだ。

スターリンに愛され、破格の待遇を受けて、演奏活動を行った。彼は1929年アメリカで行われたジャズ大会で2位になっている。その時の1位がルイ・アームストロングであった。「白いアームストロング」と言われ、熱狂的に人々に愛された。

だが、冷戦下スターリンが亡くなると、逮捕されシベリア送りになって9年間強制労働に従事させられる。

しかし、この曲を愛してやまない人々は、使用済みのレントゲンフィルムにダイヤモンド針で曲の振動を刻みレコードを作成して、聴いていたそうだ。

その数200万枚と言われている。下の写真がそのレコードである。頭蓋骨のレントゲン写真である。一名「肋骨レコード」と言われている。

jp.rbth.com 900×563から転載

これらのエピソードは、音楽を聴きたいという思いは、誰も止めることはできないということを語っている。

ハンディが言っているように、それは人種や国を超えた共通の思いである。前述の「音楽は生きる希望だった」、「人間であることを自覚できた」という思い。絶望的な状況の中で戦っていた硫黄島の日本人兵士もそんな思いでセントルイス・ブルースを聞いていたのだろうか。

今となっては、たずねることもできない…。せめて遺骨だけでも母国に帰してあげて欲しい。



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