今日ときめいた言葉68ー「対話とは『きき合う営み』だと思う」
(2023年8月11日付 朝日新聞「対話できていますか」哲学者 永井玲衣氏の言葉から)
自分が無意識に使ってきた「対話」という言葉が意味することの深さを再認識した。今までいかに不用意に無自覚にこの言葉を使ってきたことか。
永井氏の語る「対話」とはこうだ。
「対話って、話すとか語るとか、言葉がポンポン行き交うものだと思われがちですが、『きき合う営み』だと思います。相手の言葉の奥行きと、そこにあるものを確かめていく道のりです。
誰かの言葉に耳を澄ますだけでなく、どういうことなんだろう、なぜここで言いよどんだんだろうと、考え確かめていく。どうしてですか、と尋ねる「訊く(きく)」もあるはずだし、共に悩む時間的なものを共有する営みでもあるはずです」
「対話は文脈の共有、振る舞い、言いよどみなど、その場所、体全体で行われるものです。その態度は広い意味で、暴力に抗する営みです」
自分はこのような意識を持って対話をしてきただろうかと自問する。お互いに声をきき合うなどということをしてきただろうか。
友人と話していて時々体験すること。昔、私が彼女に言った言葉を持ち出して「あなたに言われたこと最もだと思ったわ」などとよく言われるのだが、当の本人にはそのようなことを言ったという記憶がない。言った方は無責任にも言い放しなのだ。言われた方は心に残るほどその言葉をしっかり受け止めたのだろうなと思う。これはまさに、「足を踏んだ人と踏まれた人の関係」のようだ。
だから、永井氏にとってのオンラインは、ほとんど言葉だけでやりとりするもの。リアルのやりとりが難しく、かえって距離感を感じてしまうし、ネット空間で行き交う言葉は視覚的で、声をきき合う、体全体を使う営みとは対照的に、断片がすごいスピードでやり取りされていく。奥行きを確かめにくい空間だと感じている。
さらに「論破」ということにいたっては、競争原理の一形態であり、他者を競争相手、脅威と見なすもので、他者に対するまなざしが対話とは全く異なるという。「論破する」なんて、かっこいい行為だと思ってしまっていた自分が恥ずかしい。こんな傲慢な態度、これこそ暴力的行為の一つかもしれない。
対話は、「変わりうる」と双方が思って共有する時間の中で、実際に相手の言葉で自分が変わったりする感慨をもたらす。対話には希望を感じるが、全てを担うことはできないという。では今、分断する社会の中で、対話をどのように行うのか?
永井氏は「問い」で呼び込む努力をするといっている。立場が違っても同じ問いを考えることはできるし、問いでつながれる。「ギリギリの可能性にかけている」と。例えば、
「国葬に反対か賛成か」ではなく、「人を弔うってどういうことなのか」、
「保守かリベラルか」ではなく「国を愛するってどういうことなのか」という問いから始める。
入管法に反対という前に「多様な人と生きるとはどういうことなのだろう」という対話をする。このような対話がないと意思表示はできない。
「『問う』って地味に思えて、すごい力を持つものだと信じています。これについて考えたい、分からないから立ち止まりたい、という態度でもあり、『あなたはどう思う?』『あなたが必要だ』という呼びかけででもある。問いは、人と人をつなぐものだと思うのです」
少なくとも、こんな心構えを持って他者と向き合ったら、良い時が過ごせそうな気がする。今からでも遅くない。こんな風に対話を楽しみたいものだ。
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