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『顔のない裸体たち』(作者:平野啓一郎)を読んで
平野啓一郎さんの本は「分人主義」に会ってから遡るように読むようになりました。
今回読んだ「顔のない裸体たち」は、その分人主義を出したとされるより以前の作品になります。
が、その考え方の一端は見え隠れしており、分人主義を考えるうえでも一読の価値有な作品だったと感じました。
作品情報
作者:平野啓一郎
刊行:2008/7/29
出版元:新潮社
ページ数:194ページ(文庫版)
あらすじ
中学教師の吉田希美子(ミッキー)と平凡な公務員の片原盈(ミッチー)。
彼らはとあるきっかけから出会い系サイトで出会い、希美子はこれまで自身も知らなかった自分を知っていく。お互いの性の利害の一致から、どんどんと性による関係を深めていく二人。
そんななか投稿サイトにて顔をモザイクで隠された自分の裸体が溢れているのを知る希美子。だが、それによる変化は片原の方にもあり、どんどんと深みにはまっていき。。
登場人物について
本作は、第三者視点で新聞記事のようなテイストで書かれている。
そのため、登場人物のセリフはあっても、心情を登場人物自らが吐露するような描写は少ない。だからは後述する自分への心情に関する矢印がどこか他人からの目線というか、熱が無いように感じられた。
それでいて、基本的にメインで出てくる登場人物は吉田希美子(ミッキー)と片原盈(ミッチー)の二人のみ。
それぞれがどんな人物かを表す一文がある。
・吉田希美子
それで、彼女は何処か、彼女自身というよりも、彼女を写した写真に似ていた。
吉田希美子を称した表現として一番しっくりきた。
別に笑ってないわけでもない。怒っていないわけでもない。でもいつも思い出される顔は同じ、切り取ったその瞬間の顔しか思い出せないという人はいる。それはその人との関係性を表しているように思う。
周りからの印象は薄く、また、そこまで吉田希美子に関心が無いことまでをも上手く表現されているように思う。
・片原盈
そして彼が、唯一女に受け容れられたと感ずるのは、ただ快楽を媒介とした関係に於いてのみだった。
学生時代から何故か周りと馴染めず、受け入れられず。片原にとって、唯一人の本音が見えるのが性交渉のときだけ。そのときだけは意志では抗えない、嘘のない”本音”が見える、と。
一般的にはそこに話し合いやらがあるが、片原にはそれが出来なかった。
確固たる自身のなかの理を絶対に曲げない。と言えばきこえはいいが、片原の場合はそれが恐ろしい。
いや、何にしても曲げない考え方、確固たる信念というのはやはりそれだけで危ういとも感じた。
内省
吉田希美子には、幼少期から自身を内省する習慣が無かったという。
作中では以下のように書かれている。
何か一つのことを持続的に考えることがなかったし、そのために必要な抽象的な能力が、固よりあまり備わっていなかった。自分の身に起こる出来事を、上手く整理し、他と関連づけるということが出来なかったから、似たようなことが二度起こっても、気づかず同じ失敗をすることがあった。出来事に隣部屋へと通じる扉があることも知らなかったので、それを誰かに開けてみせられると、ひどく驚かされた。
自分がその事象に対してどう感じたかを振り返らない、つまり自分を振り返らないこと=自分に興味が無いと解釈した。
これは吉田希美子の高校生まで続くが、これに伴って学生生活における男女による交際に対して大きな影響を与える。
内省は自分も苦手だ。。
昔から、漫画やアニメは好きだったが、「何故それが好きなのか?」「どこがどうして面白いと感じたのか?」を言語化するのが苦手だった。苦手というよりはしてこなかった。
面白い、面白くない。好き、嫌いの線引きはあった。ただ、何故そう感じるのか。
そして、そんな自分にコンプレックスと感じていたことを最近気付いた(吉田希美子に内省しない、出来ない自分自身をコンプレックスに感じる描写は無いが)。
異性に愛されるための努力を最初から放棄していたため、彼女はその外観同様に、内面に於いても少々手入れ不足だった。一方的に好意は持っても、それを成就させるための手段は驚くべき潔さで断念されていた。
吉田希美子もそうだが、片原においても同様、内省に慣れていなかったように感じた。
というより正確にはそれまでの扱いから女とはこうだと決めつけ(そう思うに至ったのは自由だが)、彼自身の考え、主義は持ち合わせていても、周りの考えを含めた自身の考えにズレがあるのかを確かめようとしなかった。
内省により至った考えが周りはどう考えているのか、外でも通用する考えなのか、ズレているならば修正するのかしないのか、修正せずとも真理であると思い込むか、いっこの考えとして留めるのか。
人とのコミュニケーションにおいて、相手に対してどうこうも重要だが、内省による、自分がどうかを持ち合わせていることもまた重要だと思えた。
知りたかったものその人の本音?
最後には、女は完全に彼の意のままとなり、そこに至るまでの二人の関係も、単なる仮初めのものに過ぎなかったことが、明らかになるのである。寧ろ一時、屈辱に甘んじていた方が、その興奮はいや増すようにさえ思われた。
~
彼は<吉田希美子>の胸を荒々しく揉みしだき、舐り回したかったが、彼の興奮はその感触にあるのではなく、その形や揺れが、彼女にとって不如意であることにこそ存していた。
顔のない裸体たち P98 L10
ここから、片原盈の女性に対する考え方がよく分かる。普通に扱われない自分が、この時ばかりは嘘がなく、真である、とそう信じている。
屈折した考えだ、と一蹴することも出来るが、人の本音というか、その人の本性を知りたいと思っていたのではないか。
もしくはどれだけ取り繕っても人はみな同じであることを感じたかったのか。
人は人ごとに異なる。誰もが当たり前のように考えるこの考え方こそ、誰からも受け入れられなかった片原盈は否定したかったのではないか。
分人主義はそこからさらに、人の中の対人関係ごとにさらに人が異なることを言っていると思う。そういった意味では、誰か一人でも片原盈を受け入れてくれる人がいたら、片原盈のここまでの信念もなかったのではないか。
変化と固執
投稿サイトに裸体を投稿されたが、それは紛れもなく吉田希美子の身体だが、果たして吉田希美子なのか?その行為をしているときは吉田希美子なのか?それともミッキーなのか?もしかしたらミッキーが吉田希美子なのか?
誰といるときかで人格をも変わる。まさに本人の意図せずに。吉田希美子は片原盈に会ったことで変化してきた。知らなかった自分をどんどん知っていった。
でも、片原盈は変わらなかった。少なくとも見えている範囲では。
誰と接しているその人をその人たらしめるのか。二人だけの関係が閉鎖的であればあるほど、周りを見ないでいればいるほど固執していく。
吉田希美子は片原盈と対比して、自己が無かったからこそ外もみようとした。そこに二人でのコミュニケーションが少しでもあれば、また関係は変わっていたのではないか?
いま付き合いのある人は、どんな人なのか?
関係性にも時間のバイアスはかかる。変化もすれば変わらないところもある。それはその人が付き合いのある人が変わっているから。
だから、人との関係に於いて、いまのその人をみないと、と感じた。
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