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母があっけなく鬼籍に入った。

子供のように感情に素直だった母は、喜怒哀楽を表現した人だった。
年を取るにつれてそれは顕著になり、時には周りを困らせ、そして最後は静かに息を引き取った。

認知症だった。
大きな病気にかかることもなく、食べることが大好きだった母。
もともとこれといった趣味はなく、定年退職をしてのんびりと余生を送っていた。
時々感情を爆発させ、父や兄夫婦を困らせていたようだったが。
実家から離れて生活をしていた私には、どこか他人事のような気持ちでそれらのことを聞いていた。

そんなぎくしゃくとしだした両親のもとに、結婚生活に見切りをつけた私が戻ってきたのだ。生まれたばかりの子供を連れて。
もう恵まれることはないと思っていた娘の子供を、父も母もたいそう喜び、今まで見たことのない種類の笑顔でかわいがった。老いた両親の生活は一変した。
環境が大きく変化することは、例え良い方向であってもストレスになると言う。
良くも悪くも、母にとっては大きなストレスだったのだと後になって思った。

母はリウマチを患っていたので、孫を抱くことができなかった。
だからなおさらもどかしかったのだろう、拙い私の子育てにいちいち口を出した。
私はそれに反発をした。もともと両親の夫婦仲もそれほど温かいものではなく、母は父からも強い口調でたしなめられていた。

それから母の認知症はどんどん悪化していった。
あれほど強く拒んでいたはずだが、ある日突然「免許証を返すことにしたよ」と言ってきた。理由は言わなかったが、きっと何かトラブルがあったのだろうと家族で目くばせをした。そして返納を望んでいた私たち家族は、一大決心をした母を盛大に褒めたのだった。

今から思えば、その頃から母のアイデンティティは悲鳴を上げていたのだろう。
料理や買い物もできなくなり、経済的な自由を取り上げられ、徘徊して自分がいる場所が分からなくなる日々。
家族が心配の声を上げると、それを批判と受け取り反発を繰り返す。小さな子供が「一人でできる!」と意地を張っている様だった。

幼い子供を保育園に預けながらフルタイムで働く私には、不安に怯える母に優しく接する余裕もなく、おざなりな言葉でその場をやり過ごすことしかできなかった。
母を安心させてあげることができなかった。

身体の丈夫な母は認知症というだけでは介護度が上がらず、満足な介護サービスをうけられない日々を過ごしていた。
父親が癌で入退院を繰り返すようになり、母をショートステイに預けるようになった。父のいない実家に一人で置いていくわけにはいかず、施設に預けられない日は兄夫婦や私が母を見た。
私たちの目が届かない時にふらふらと外出し、転んで骨を折った。それがきっかけとなり足腰が弱り、特養への入所が可能となった。
入所してしばらくは私たち家族のことも判別できるようだったが、コロナ禍で面会の回数が減り、次第に母は私や孫のことを忘れてしまった。

母のもとを訪れるのは気が重かった。
敬語で返事をする母が悲しくて怖かった。

あんなに食べることを楽しみにしていた母が食事を摂れなくなったと聞いたのは、つい最近のことだった。
体調を崩し入院し、治療の方針で一時的に絶食をし、その間は点滴で栄養を取っていた。
その後回復し、また施設に戻った時には食事を摂ることができなくなっていたようだ。
それから坂道を転がるように体力は落ち、見る見るうちに母は衰弱していった。

医者に提案された胃ろうは選択しなかった。兄夫婦と相談し、母の体はすでに栄養を消化吸収することができないと判断したからだ。
すると水分だけの点滴となり、やがてそれも外され看取りに入った。

母は幸せだっただろうか。
大勢ではないが近い身内に囲まれ、静かに息を引き取った。

恵まれた人生ではなかったかも知れないけど、あきらめずに母は一生懸命生きていた。
最後まで自分の存在を必死で訴え続けた母だった。

土曜日の昼、仏様になった母はみんなから手を合わせられる存在になった。
葬儀の参列者は涙を流していた。
みんなが母の死化粧をキレイだと誉めていた。まさにその時母は主人公だった。
母は満足しているだろうか。

車を運転して色んな所に出かけるのが好きだった母。
にぎやかにおしゃべりするのが好きだった母。
不自由で重たい身体を脱いで、きっと自由に動き回っているにちがいない。遺影の母はとてもいい笑顔だった。

親不孝な娘でごめんなさい。母に与えたものが少なすぎる。
悔やんでも悔やみきれないけど。今更どうしようもないけど。
それでも身軽になった母にお別れとおめでとうを伝えたい。やっと自由になれたね。
そしてまた逢いましょう。さようなら、お母さん。大好きでした。


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