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ネパールの娘

ボサノバの名曲に「イパネマの娘」というのがあったが、今日はちょっと私の「ネパールの娘」のことを書いておきたい。

コロナ禍の不自由な生活にも慣れてきたある日、家に帰ると一通の封書が届いていた。大きなA4サイズの封筒に横文字のある公益団体の名前が書かれている。実はもう10年以上前から海外の子供の里親というか援助のようなことをしており、年が変わる度にその団体からこのような通知が送られてくるのである。

毎年送られてくるその封書にはいつもレポートと一緒に、直には一度も会ったことのないあるネパールの女の子の写真が一枚入っている。その写真で年に一回だけ彼女の今の様子を知ることができるのだ。里親などと言っても毎月機械的に幾ばくかの費用を送金しているだけで親らしいことなど一度もしたことがないのだが、毎年送られてくる、いつもカメラを眩しそうに見つめるその子が毎年成長している姿を見るのはとても嬉しいものである。

きまって野外で撮られたその写真の後ろには彼女の住居と思しき家とその前を走る土の道が映り込んでおり、それを見て山奥の村に住むその子の日常を想像しながら、いつの日かその地を訪れて見たいなあとずっと思っていたのである。

しかしこのところ、地球規模で新種の伝染病が爆発的に流行し、もちろんネパールもその例外ではなく、その様子がとても気になっていた。以前にネパールで地震があった時にも、その状況を知らせる文書がこの団体から送られてきたことがあった。

(今回も現地のコロナの状況か何かが書かれているのかな?)

などと思いながら俺はその封筒を手に取りながら、初めてその子の写真を見た10年前のことを思い出していた。

***

10年前、俺は今より10才若かった。え、当たり前だって? いや、その通り。

ま、それはともかく、東京に住む俺は、その10年前のある日、その頃は健在だった親父が住む実家に向かっていた。家に近づくと玄関で郵便受けを開けている親父の姿が見えた。何か郵便物をポストから取り出している様子だった。

「おお、久しぶりだな」と言う親父の手には一通の封書が握られていた。薄水色の封筒に立派な紺の文字で何かカタカナの団体名が書かれていた。

俺はまた親父が誰かにそそのかされて変な投資か何かに入れ込んでいるのではないかと思い、「お、何それ?」と聞いてみた。

「ああ、これな。ちょっとあしながおじさんやっててな」
親父は少し照れくさそうな顔でそう言った。

俺はサンダルで出てきていた親父の足を黙ってチラっと眺めて見たがお世辞にも長いと言う部類ではなかった。親父はその視線と俺の言いたい事に気が付いたのか、俺の視線を振り払うように少しこちらを蹴る真似をすると家に入って行った。

久しぶりの実家のコタツに入り手持ちぶさただった俺は、親父が既に封を切ってコタツの上に置いたままにしていたその封筒を開けて中をのぞいてみた。

「チャイルドと地域の一年の歩み」と書かれたレポートの小冊子が出てきた。その団体ではサポートしている子供を「チャイルド」と呼んでいるらしい。

一枚の女の子の写真が添えられたそのレポートには、次のようなことが書かれていた。

【住居の様子】現在は竹と泥で作られた壁、トタン屋根と土間の家に住んでいます。【近況】Murti-Deviちゃん(*仮名)は6才になりました。【学校】通学には45分弱かかります。好きな科目は算数と体育です。

偶然だがそのMurti-Deviちゃんという女の子は俺の子供と同じ年だった。

またそのレポートには、彼女が既に基本的な予防接種を全て受け健康状態が良いということ、最寄りの保健施設が2時間ほど離れたところにあること、そしてその地域の文化、衛生、教育制度などについて細かく書かれており、一読するとネパールでの彼女の生活を想像することができる内容になっていた。

写真の中のMarti-Deviちゃんは、日に焼けてキリっとした目をした女の子だった。民族衣装だろうか、目の覚めるような真っ赤な衣装を来てリュックサックを持ち家の前に立っていた。

部屋に戻ってきた親父に「へえ、こういうのやってんの?」と聞くと、「もう家にも養う子供がいなくなったからな」と言い、毎月の送金金額を教えてくれた。

そして親父は、「このくらいの金額で一人の子供が学校に行って生活できるんだから、ちょっとは協力しないとバチがあたると思ってな」などと殊勝なことを言うのだった。よくある老人狙いの変な投資話に入れ込んでいるような話ではなかったので俺は安心した。

その後、そんなやりとりをした事はすっかり忘れていたのだが、その何年か後に親父が他界し、その遺品整理のために実家に戻り親父が使っていた部屋を片付けていた時にどこか見覚えのある未開封の封筒が目に入った。

封筒には紺の文字であの団体名が書かれていた。ダイレクトメールか何かだと思い他の家人も封を切って中を見なかったようである。

封筒を開けて見ると、やはり見覚えのあるレポートが女の子の写真と一緒に出てきた。以前に見たレポート同様に彼女が元気に学校に通っていることや、今はどんなことに興味を持って生活しているのか等が書かれていた。俺の子供と同じ年の彼女は同じように成長し元気に生活しているようだった。

そして部屋にはもう一通、同じ団体からの未開封の小さな封筒があった。表には「大切なお知らせです」と判が押されており、開けてみると「登録口座から今月引き落としができなかった」と言うことが書かれていた。確かに親父の銀行口座は既に凍結となり全ての引き落としが止められているはずだった。

(そうか、送金は銀行引き落としでやっていたのか)

しかし、こういうことはよくあるのであろう。その案内には、その里親を引き継ぐ人がいれば同封の書類で手続きをしてくれ、何も手続きをしなければ団体が別の人に里親を引き継ぐ、と言うようなことが書かれていた。しかし俺はあの日「これぐらいしないとバチがあたるよな」と言っていた親父の姿を思い出し、「あしながおじさん」を引き継ぐことにしたのだった。

東京に戻り手続きを済ませると、その頃小学生だった自分の子供に「ネパールに妹ができたぞ」と伝え、その団体の里親制度の話や、そういう活動を俗にあしながおじさんと言うのだという話を聞かせた。そして「いつか同い年のこの二人を会わせてみたいものだな… 」と思ったのだった。

「なんで、あしながおじさんって言うの?」と聞かれググって見ると、アメリカの同名の小説の中の「孤児院の車寄せの戸口に立っていた背の高い評議員が、迎えに来た車のヘッドライトに照らされた時、その影が巨大な人間に見えた」というエピソードから来ているらしかった。俺は子供にそう説明しながら、短めの足で笑いながら俺を軽く蹴ろうとした親父の姿を思い出した。

***

「そうか、あれからもう10年以上経つんだな」と思いつつ俺は今日家に届いたその封筒を開けてみた。何かネパールのコロナに関する状況のようなものが書かれていることを想像し、きっと向こうも大変だろうななどと思いながら中を見ると、一枚目の書類には「援助終了のお知らせ」と書かれていた。

(ん、援助終了した覚えはないけどな)

と思いながら読んでいくと、「突然の連絡だが、Murti-Deviさんは学校教育が終わり協会への登録も終了し、就労機会の高い大きな都市で仕事に就くために家族と共にコミュニティを離れ移住した」というようなことが書かれていた。

確かに彼女は今年で18歳になるはずだった。先回この通知を受けた時にふと「うちのガキと同じ年だからそろそろ高校も終わりだろうけどその後どうするのだろうか」などと思ったことを思い出した。

これまで俺は、費用の援助しかしていない立場で手紙を書くことなどは気恥ずかしく、また恩着せがましいような気もしてこちらから一度も積極的に連絡をしていなかった。いつか彼女が成人したら何かの機会に対等の立場で会えればいいな、などとのんきに漠然と思っていたのである。

しかし、その書類には「彼女はもう移転済みでこれからメッセージを送ってもおそらく本人には伝えられないだろう」というような事が書かれており、また「元々団体の方針で連絡先は伝えないルールになっており、登録終了後の個人的な交流は基本的に禁止させてもらっている」と言うようにも書かれていた。それも理解できる。何かトラブルの元になることもあるのだろう。

そんな訳で、この俺の柄にもない「ザ・あしながおじさん活動」はある日突然一通の手紙と共に終わりを告げたのだった。

今後はもう、「この空の下のどこかにいる」ということ以外何もわからないのだということを想像するとなんだか寂しい気がしたが、俺は彼女が移住したと言うネパールの都市名をググってその街並みを見ながら、そこで生活する彼女を想像し、なんとか良い仕事を見つけてくれますようにと祈ったのである。

きっとこれから元気に働き、誰かと巡り合い家庭を築いていくことだろう。

またついでにネパールのスマホ普及率を調べると都市部では既に100%を超えており(一人一台以上持っていることになる)、今はFacebookが大人気などと書かれていた。

世界はどんどん変わっているようだ。いつの日かFacebookで彼女の名前を検索した時に、その街で知り合ったご主人と子供と3人で映った写真などが俺のスマホの画面に現れる日が来るのかもしれない。


(了)

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