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私の活動は私が幸せに生きるためにしていること

初めての自殺未遂は小学生。
その行為が「自殺未遂」ということすら知らなかった。

気が付いたら髪を抜く抜毛症を患っていたように、
気が付いたら身体を掻きむしって血を流していたように、
気が付いたら爪を噛んでいたように、
気が付いたら唇の皮をむしって口内の皮膚もむしっていたように、
無自覚な自傷行為と同じくらいの無自覚さで
無自覚に自殺未遂を行っていた。

【 思いつく→実行する 】というショートカット思考より遥かにショートカットな【⠀実行してた 】だった。

無知で、純粋に、ただ楽になると発見した行為。
「これすると良かったよ!」と、善意で人に教える程の無知。

問題児扱いされ、先生に気を遣わせてしまい、親に怒られ(心配され)(悲しまれ)
初めてこれがいけないことで隠さなければならないことであると知って
「普通じゃない自分」を知った。

皆やってるという勘違いもしていなかった。
世界は、人間はこういうものだと思い込んでいた。
そんな自然の仕組みに、たまたまみんなよりも早く気付いただけだと思っていた

自分の生きづらい理由を知りたくて、世の中の辛いことに「どうして辛いことが起きるの?」と理由が知りたくて、心理学に興味を持ち独学を始めた。
図書館や図書室の本には限りがあったので、ネットで色んなサイトを見て掲示板の人達と会話を楽しんだ。


私の初めてのパニック障害は中学生。
あんなにあんなに苦しいのに「なんだ、ほんとに死ねないのか」とガッカリしたのを覚えている。
あんなに苦しいのにピンピン生きてるって、良いこと1つもないなぁ…めんどくさいなぁ…とうんざりし、なるべく発作が起きないよう工夫して生きてきた。
発作が起こる根本的な原因にはノータッチだった。何かしらのしんどい異常発生が起こることは私の中で自然で当たり前なことだったので、「過呼吸が起こること」そのものも自然に受け入れられてしまった。
あーまた何か出てきたなぁ と、これが自分の普通だった。


そのおかげで「どうして私だけ」と悲劇のヒロインにもならなかった。
そういうものだと思っていたから、そういう理由では辛くなかった。
悲観することなくただ「辛いなぁしんどいなぁ面倒だなぁ」と我が身に起きる精神疾患の症状を淡々と処理していった。

ちょっと大変でめんどくさいけれど、親に知られて悲観されるより遥かに楽だ。親に知られて悲観されることと、そんな中で生きていかなければならない方がよっぽどしんどくて辛い。
親に愛されているからこそ。


自殺という方法で
ずっとまとわりついていた苦しみから、
やっと楽になれた友達がいる。

小学生からの親友。
お世話になったお兄さん。

苦しい現実からの脱出方法や乗り越え方は人それぞれ。
自分なりの脱出方法を実行できて
「安心してね〜」と最後まで優しく言葉を残してくれた。


だからこそ私は
「楽になるために自殺する」人の気持ちがよく分かる。

だからこそ私は
「生きていれば良いことがある」という人の気持ちは、よく分からない。

無かったらどうするの?
ただの希望的観測でしかない。
これ以上の絶望を味わうだけだったら、
一体どう責任取ってくれると言うのでしょう、ね。


今たまたま生きているけれど
「生きてて良かった〜」と実感したことは無い。
いつも不安な中を生きている。
そんな不安を抱えた生き方は、私を大切に想う人に申し訳がないから、安心させたいから「せっかく生きるなら、ちゃんと良くしていかないとなぁ」と、そんな理由から好きなことを突き詰めて極めて過ごしてきた。

だってそうしないと無意識に楽になろうとしてしまうのを、そういう私を知っているから。
そういう自分を知っているから、こう生きるしか知らない。
こう生きるしか知らないままだったら、今ここにいない。


「辛かったんだね」
「私は今貴方が生きてて良かったよ」
こういう言葉もよく分からない。

生きてて良かった そうかな?
それは私が今健康そうに平気そうに見えているから?
それとも死にそうなほど辛い状態でもそう言ってた?
そんな状態の人間に「良かった」って言うの?

生きてるだけじゃダメよ
生きるからには幸せにならないとダメよ
じゃないと周りが不幸だから
じゃないと生きてて周りの人に心配かけてしまうから
じゃないと私は無意識に楽になろうとしちゃうから

だから私は今日も幸せになる方法を
心が健康になる方法を
私が好きで突き詰めて極めた心理学や脳科学の知識を元に
私が好きで突き詰めて極めた芸術活動を通して実行していくのです。

私の活動は私が幸せに生きるためにしていること。

とっても喜びます😭 研究書籍に使います!!!