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【短編小説】『ガーデニング』 (4)

翌朝、庭に出ると、頭上を蝶がサッと通っていった。見たことのない色の蝶で珍しく思い、その姿をもう一度見たいと探していると、このあいだ自生するフジバカマの花を見て家にも欲しくなり、ホームセンターで買った状態のままの、黒いプラスチックの鉢に入ったフジバカマの花に止まっているのを見つけた。何ていう蝶やろうと思いながら見ていると、蝶がこちらへ飛んできて、私の手の甲に停まった。こんなことある?と自問しながら、その蝶が止まっている手を目の前に持ってきた。羽根は茶色の縁に中は透明に近いブルーでとても綺麗だった。それにしても何でこんなに逃げようとしないのだろうと不思議で仕方がない。しばらくしてどこかへ飛んでいったが、私はその蝶が何であったのか気になり、家へと戻り、スマホを手に取って検索した。アサギマダラという蝶であることが判明した。蝶なのに渡りをすることで有名で、千から二千キロも旅をするのだという。私はそんなロマンが詰まった蝶であることを知ってますますその蝶のことが気になり始めた。その日のうちに図書館へ行き、アサギマダラに関する本を二冊借りた。今まで自然のあるところに住みながら、なぜ私はもっと自然に目を向けてこなかったのか、と強く後悔した。自分は両親も祖父母もいなく、変な男も寄り付く不運な人間だと思っていたが、自分には唯一自然という恵みがあることに今になって気がついた。しかもこんな自然を市内にいながら味わえるのはこの上ない幸せだ。わざわざ会社という不幸な場所に行く必要があるのだろうか。お金なら十分にあるではないか。私は改めて真剣に会社を辞める決意をした。休み始めてまだ三日しか経っていなかったが、案外早く決断できたと嬉しくなった。私はハーブ園をやろうと突如思い立った。こんなに広い敷地をひとりで独占していてはもったいない。私はそうと決めたのなら、ぼーっとしていられないと思って、ハーブ園造営のための計画書を書き始めた。書いているうちに、やっぱり自分だけではどうしてもできないことがいくつかあることに気がついて、途端に嫌になった。結局私はどうにもならない一生なのだ。私はただのOLとして人生を終えるように元々決まっているのだ、ああつまらない、でも結局自分だけにしかできないことは何にもないのはいくら前向きに考えても変わらない事実だった。みんな小さい頃から何かしら苦労して継続してきたからこそ、一つの傑出したものがあるのだと痛感した。ああ。何故か縫田の顔が浮かんだ。あいつは…あんな不器用そうなくせに仕事に関してはできるみたいだった。いわゆる容量の良いやつ。とりあえずこうして考えていれば考えているほど沈んでいくだけだと思い、何でもいいから手を動かそうと外へ出て、また剪定をし始めた。セージの枝を切ろうとすると、葉に擬態していた巨大なバッタが高く飛躍した。私はびっくりして大きくのけ反ったおかげで、腰からギクっという音が漏れて聞こえ、正真正銘のぎっくり腰になった。とことん私は・・・。地面に背をつけ、空を仰ぎ見た。空だけは平穏だった。


私は痛まないように慎重に立ち上がりゆっくり歩いて家の中へ入ろうとしたが、それでも痛みがひどかった。この世がひっくり返りそうなくらい痛い。不平等。その言葉が私の頭の中にこびりついて離れなかった。バッタがそうであるように、唯一の恵みである自然ですら、私に敵対するものであるのではないかと思うと、途端に涙が溢れてきた。やっとのことでベッドにたどり着き、横になった。横になっても痛んだ。何故だか今度は笑えてきた。ここまでいくと、面白いと口に出して、私は半狂乱になったようだった。やがて興奮も冷め、横に向いたほうが痛さを感じないことに気がつき、横へ向いて眠りについた。

目が覚めると、夜中だった。ゆっくり起き上がり、トイレへ行き、水を飲んで、カウンターに置いてあったスマホをとって、またベッドに戻った。横になりながら、メッセージを確認すると、サリからのメッセージが一通来ていた。急に二週間も有給を取った自分のことを心配する内容だった。この哀れな姿を自撮りしてサリに送ってやろうかとも思ったが、やめておいた。サリに余計な心配をかけたくない。私は恵みが自然しかないと言っていたが、サリこそ最大の恵みだ。何故忘れていたのか。私ほどの薄情な人間はいないと思った。痛さにもがきながらも、いつの間にか眠りについていた。


朝の静けさに心地良すぎて、逆に目が覚めてしまった。腰の痛みを忘れていて、起き上がろうとした瞬間、激痛が背中を走り、ああそうだったと気がつき、大人しくそのまま逆再生するかのように体を後ろに倒した。私は病院へ行くか散々迷ったが、もうタクシーを呼ぶにも痛すぎて、外まで行くのを考えると、無理だった。このまま誰にも気づかれずに死んでしまうのか、そのような考えすら浮かんだ。そんなとき、「人は頼り、頼られて生きていくものだ」という小学生の頃の自分すら凡庸で嘘くさいと感じた小学校の何かの行事で生徒みんなで考案したスローガンがなぜか頭に浮かび、それが真理であるとしたら私は頼りも頼られも、どちらもしてこなかったと嘆いた。でも生きている。その代償でこんなになってしまったのではないか。私は手を伸ばしてスマホを取り、サリの電話番号を押そうとしたが、やっぱり躊躇った。サリに神戸からここまで来させるのはやっぱり申し訳なさすぎる。じゃあ縫田しかいなかったが、あの男を呼べば、私が動けないのを良いことに必ず何かするという確信があった。でも腰のことを考えるとそんな事言っていられなかった。縫田はすぐに電話に出て、事情を話すと、仕事が終わったらすぐ行くと言ってくれた。もうどうにでもなれ、痛いのさえなくなれば、それでいいのだ。早く縫田よ、来い。


縫田が来たのは夜の七時すぎだった。私は匍匐前進をして玄関まで行き、縫田を迎え入れた。縫田は扉が開いたのに、誰もいないことに本気で焦っていた。

「下、下。」と言うと、平伏した私に気がつき、

「うわああ」と情けない声を発した。

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃないから呼んだんやん。助けてよ。」

そっけなくそう言うと、縫田は私の腰に手をあてようとした。

「ちょっとやめて。」

私は半ば叫びながら、その叫びによってまた腰に襲いかかる痛みに喘いだ。

「起こしてあげようとしただけやろ。」

縫田は半分キレかかっていた。私は流石に悪いと思い、

「ちょっと痛すぎてイライラしてるねん。ごめん。」と謝った。

「病院行った方がいいんちゃう?」

「うん。」

「でももう病院やってないな。救急で行く?」

「何でもいいし、早くこの痛みから解放されたい。」

「じゃあ救急で行くか。」

と縫田は匍匐前進の格好をした私のそばから立ち上がり、近くの病院で救急診療をやっているところを探し始めてくれた。いいところを見つけたと言って、縫田は私を車に誘導した。

「ごめんな。仕事終わりやのに。」

「しゃあないやん。もっとはよ言ってくれたらよかったのに。」

と縫田の横顔が紳士のように一瞬間だけ見えた。縫田の灰色の車は思ったより大きく、後部座席は十分横になれる広さであった。私はよいしょと言い、車に乗り込んだ。よいしょか。縫田もこんなおばあさんに好意を持ってしまって可哀想だと思った。というか、縫田は私に本当に好意を寄せているのか。いや、好きでもないのにこんなこと。私の恋愛は大学時代でストップしている。今の恋愛の仕組みはその時とは変わっているかもしれないし、サリもマッチングアプリで知り合った人と結婚したぐらいだから、私の考える男女の関係は今の時代にとって重すぎるのかもしれない。

車の振動が背中にナイフが突き刺さるように痛かった。

「もうちょっと優しく運転できひん?」

「わがままやなあ。わがまま言う子はモテへんで。」

私は無言になった。なんだか予想が当たったような気がした。ここは追求しなければならないと思い、

「縫田ってそんな恋愛経験豊富なん?」と聞いた。

「まあ、人並みよりは豊富かな。」

うざい言い方。醜男は案外モテると聞いたことがあったが、縫田はそれを見事に体現している。

「彼女いるん?」

縫田が話し出すまでちょっとの間があった。

「まあ一応。」

ああやっぱりか。はよ言わんかい。「へえ。また紹介して。」としか返す言葉がなかった。私は振動で揺れる車の天井をぼうっと眺めた。こんなぎっくり腰にもなり、時代にも置いて行かれ、ああ私はなぜ生きているのか。そんな小学校のスローガンに引けを取らない程の凡庸な問いが自分から発せられることにも嫌気が差した。

病院へ着くと、縫田が私を介抱しようとしたが、私は手で払った。自分でいける、そう冷たく足らい、少しでも腰に刺激を与えないように歩いた。受付の女性にぎっくり腰ですと伝えると、はあ?という顔をされた。そりゃそうや、ぎっくり腰で病院に来る人間なんか滅多にいいひんわ。しかも救急診療でなんか。でも私は本当に痛くて何もできないからこそ来たんや。この痛さ、もしかしたらぎっくり腰じゃないかもしれんぞ。病院はどんな人間に対しても開かれたところでないと。たとえぎっくり腰でも当人の痛そうな顔を見てよくはぁとか言えるな。言ってないけど。受付の分際で偉そうな。お前が見る訳じゃないやろ。

私は診察券を受け取り、三十分も待たされたあと、「北村さん。北村ユキさん。」と呼ばれて、診察室へ入った。医者は医者で私に冷たかった。どうやら研修医らしかった。私の腰をきつく触って、「いたっ」と大きい悲鳴をあげても、謝りも宥めもしなかった。結局、「ぎっくり腰ですね。安静にしててください。」とA Iのように抑揚のない口調で、事務作業を淡々とこなしていく感じだった。私は湿布と鎮痛剤をもらい、病院をあとにした。

「ごめんな、だいぶ待たせて。」縫田は私を待っている間、ずっとスマホのゲームをしていた。こいつは単純にいいやつだと思った。こういう人間こそが幸せになるべきだ。私は不幸が一番似合ってる。縫田はまた家まで送ってくれて、別れ際、私は何かを言おうとして、「お幸せに」と言ってしまった。「何が?」と言われ、困ったが、「彼女と」と言ってしまうと僻んでいるみたいで勘違いを引き起こしかねなかったから、「これからまあ苦難がたくさんあると思うけど、お幸せに。」と自分でも訳のわからないことを言ってしまった。「意味わからんやん。」と縫田は苦笑しながら、出て行った。私は自分自身をどうしようもない人間だと思った。私はこれからどう生きていくのだろうか。

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