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【短編小説】 『ガーデニング』 (2)

次の日会社は休みであったため、朝起きて早速剪定にとりかかった。昨日買ったガーデニングの入門書にはバラの枝を剪定するときは、枝の上芽五センチのところを切ると書いてあった。五センチ…。私は目分量で、枝の上芽から五センチくらいのところを指で抑え、あらかじめネットで買っておいた剪定バサミでプチっと思いっきり切った。ハサミはペーパークラフト用のハサミで切った時の感触と全く違っていた。あまりの心地よさに自分の体が溶けていきそうだった。すぐさま次の枝にとりかかった。全部で三十本くらい枝を切った後、私は庭の天然芝が生えているところにお尻を着け、続いて背中、頭と、仰向けに寝転がった。雲一つなく、ただ薄い青が広がっている。ああ、ずっとこうしてたい。自分しか人間がこの地上にはいないような感覚だった。街では聞こえることのない清涼な鳥の鳴き声が聞こえ、音楽なんていらないと極端にもそう思えるくらいだった。私はふと自分と同じ年代の人は今どこで何をしているのだろうかという疑問が頭に浮かんだ。私は別に異常なことをしているつもりではなくても、自分が異常なことをしているような感覚に襲われることがある。今まさにその状態だった。

ジーンズのお尻についた草を払って、家の中へ戻った。キッチンのコンロに置いてあったやかんに水をたっぷり注ぎ、火をかけた。やかんの口から湯気が天井へ向かって登っていく様子をぼーっと眺めているうちに、睡魔が襲ってきた。

沸騰したやかんの中のお湯にルイボスティーの茶葉をパラパラと入れて、また座り直す。ルイボスティーのほんのり甘い茶葉の香りが部屋中を漂った。私は祖母のお気に入りであった揺り椅子に座り、一定のリズムで前後に揺れながら、お茶が濾し切るまで待った。そして赤褐色に染まったやかんのルイボスティーをお気に入りのカップに注ぎ、居間の方へ運んで行った。それを飲みながら、おばあちゃんが持っていた画集のうち一番好きなセザンヌの画集をペラペラめくり眺めていたが、座ったままとうとう眠りについてしまった。


 休みが明けて、車で仕事場へ向かった。御池通りの交差点で信号待ちをしていたら、目の前に横断歩道を渡る縫田の姿があった。縫田は信号が赤でこっちは停まっているのにも関わらず、会釈をして横断歩道を渡っていった。私は気づかれないかどうか冷や冷やしたが、縫田に気がつくような気配がないのを見てとると、むしろ縫田の行動を観察していたくなった。「奇妙」それがあいつを表すのに一番的確な言葉だ。そんなことを考えていると、後ろからクラクションを鳴らされ、横断歩道を渡り切ったばかりの縫田がその音でこちらを一瞬振り向いたが、私の存在に気づきはしなかった。それにしても、最近会ったばかりの人間にこんなすぐに会うとは、いくら仕事先が近いとはいえ、縫田と何か縁みたいなものがあるのだろうか。私は実に不愉快だった。


この日も、夕方までに仕事を終わらせ、いつもより早めに会社を出た。自宅に帰る手前、同じ大原野にありながらも家からは数キロ離れたところに私は立ち寄った。そこは祖母とよく来た小高い丘で、丘を登っていくと、フジバカマが何輪か咲いていた。私は中腰になってフジバカマの花に顔を近づけ、直で花の香りを確かめた。ほとんど香りはしなかったが、祖母の顔がふんわりと浮かんだ。祖母はフジバカマを見つけては、「あれはね、平安時代のお公家さんたちが袋に詰めてね、いつも持ち歩いていたのよ」と私に教えてくれた。

さらに丘を登り、見晴らしの良い場所に来て、鼻から空気をいっぱいに吸う。大原野は京都市内に比べて百三十mも標高が高く、この高台からは京都市内が一望できた。

すると急に突風が吹き、私はよろめいて、ゴツゴツした岩肌に右手をついた。手を払って立ち上がるも、風の勢いはまだ強かったため、また倒れないようにしゃがみ込んだ。溜息を漏らさずにはいられなかった。一人で何をしているのだと何とも言えない気持ちに襲われた。


ある休みの日の昼間、庭の手入れを始めると、野良猫のチキが近寄ってきた。必死で動かす私の腕にスリスリと体を擦り付けた。「もう、じゃま。」と言ってもチキはやめるどころかその擦り付けはさらに激しさを増した。わざととしか思えないほど尻尾を口元にやってきて少しでも口を開ければ尻尾が口に入りそうであった。尻尾を掴み、「わかった、わかった。」と言って剪定ばさみをその場に置いて、家の中へ。玄関の隅に置いてあるキャットフードとチュールを持って、チキの元へ戻ってきた。

チキは鳴き喚き、餌を置いてやると、すぐに食べ始めるかと思ったら、キャットフードの上に乗ったチュールの塊だけを咥えて、せかせか走り出した。走っていくチキに「取らへんって。」と言っても、チキはどんどん遠くへ駆けていき、生垣の小さい隙間をくぐり抜けて、完全に姿が見えなくなった。私は変に思い、チキの後を追っていくと、五匹ほどのチキと同じサビ柄の、みんな目が半分しか開いていない子猫たちが缶詰の塊を囲い、貪っていた。その隣ではチキが子供を見守るわけでもなくただ毛繕いしていた。そしてふと現れた私の顔をじっと見据えた。「チキ、いつの間に」私は驚きとやら嬉しさの感情でその子供たちが缶詰を食べ切るまで呆然としてその様子を見ていた。

その後、続きの剪定を終え、家の中へ戻り、ベッドに横たわった。外からは少し冷たいくらいの秋風が入り、遠くの方からはモズの甲高い声やヒヨドリの喚く声が風に乗ってかすかに聞こえてきた。私はそのまま眠りについた。インターホンが鳴った音で目を覚まし、時計を見ると、もう夕方を過ぎていた。フラフラした足取りで玄関まで行き、戸を開けると、そこには縫田が立っていた。

「営業で近くに来たから」と言い、縫田の目は私の目を捉えず、どこか違うところを向いている。私は用事があると言って帰そうかと思ったが、それはあまりにも酷なことだと思い、すぐに帰すことを前提に一応はあげることにした。それにしても縫田は以前のことを反省していないのか。そして何より家を覚えていることに嫌悪感を覚えずにいられかった。

「相変わらず、でっかい家やな。」と縫田は言った。

縫田は当たり前のように家の中をずかずかと足を踏み入れていき、こちらの許可も得ず、勝手にソファに腰を下ろして、ハアと中年のおじさんみたいな息を吐き、ソファに体をもたれさせた。

「なんか飲む?」

「なんでも良いよ。」

わざと無神経な風をしているのか、それともありのままなのかわからなかったが、うざい反面、気を遣わなくて良いので楽だった。縫田は家の中を見回している。

「仕事は上手くいってるん?」と当たり障りのない言葉を投げてやった。

「まあまあやな。最近何人か辞めたから、俺の受け持つ案件も増えてきた。」

「営業って言ってたけど、営業もせなあかんの?」

「そう、普段はせんのやけど、営業担当が休みで、俺が代わりに。」。

絶対に嘘だと思った。こんな田舎に営業にくるはずがないと私はずっと思っていた。ましてやwebデザインの仕事なのにこんなところに用があるはずがない。嘘がバレてもいい前提でそんな見え透いた嘘を言ってるのかと思うと、あまりにも無神経すぎてこの男を早く家からつまみ出さなくてはいけないという思いに駆られた。しかし、縫田は喋り続け、帰ることを促すように言うタイミングがなかった。やっとのことで「時間大丈夫?」と切り出すことができた。

「ああもうこんな時間か。長居しちゃったごめん。」と案外素直に反省しているようだった。

「いや別に良いんやけど、暗くなったらこの辺電燈少ないから危ないで。」と言うと、

「ああ、それは大丈夫。暗いのには慣れてるから。」とまた無神経さを発揮してきた。

結局その場に居続けた縫田とはもう話すことがなくなり、私は自分の用事に取りかかり始めた。暇になった縫田は一人家をうろうろして家に飾られている屏風や掛け軸をしげしげと眺め、「へぇ」とか「すごいな」などと一人感心していた。私はそんな縫田の姿を見て見ぬふりをしていた。暇の度合いが超えたのか、それとも私が帰らないことに腹を立てていると悟ってか、縫田は「じゃあそろそろ」と言って、ひっそり家を出て行った。

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