螺旋状の瞳

 つまりそれは僕ではなかった。月明かりはそっと部屋の中に忍び込み、空間を青白く染めている。右の手のひらをゆっくりと開く。徐々に青白い光が染み渡っていくのがわかる。僕はだんだんと僕を取り戻す。僕の目の前に立っているマリーに視線を移す。彼女の影は僕の方に伸びており、既に二人の影は交わっている。
「服を脱いで」とマリーが言う。
指示に従ってシャツを脱ぐ。
「ズボンも」
 僕がベルドを外すと、ズボンは床に落ちた。両足をそこから出す。彼女は微笑む。書き忘れていたが、彼女は裸ではない。さらに言えば、左手には剃刀を持っている。彼女は僕に近づいてくる。一歩。二歩。三歩。あと二歩で、僕と彼女は完全に交わるだろう。しかし、彼女は僕に近づく代わりに、剃刀を僕の首筋に向けた。それと同時に刃先に映る月光が素早く移動する。刃先は微かに僕の身体に触れている。
 既に僕は思い出している。以前マリーが連れてきた少女のことを。少女は娼婦だった。マリーは彼女をもてなし、ベッドへといざなった。明らかに、少女はマリーに恋していた。彼女はマリーとの密やかな快楽に期待し、この森へやってきた。少女の服を脱がせ、全ての準備が整ったあと、マリーは僕を寝室に呼んだ。彼女は僕に剃刀を渡した。あの時の少女の表情はどのようなものだっただろうか。僕ははっきりと覚えてはいない。あの時、僕はただマリーの指示に従って自らの身体を動かしただけだ。その時、僕の身体と僕の精神には何ら関係はなかった。少女の首からどっと血が漏れる。
 僕の右手が赤く染まっていく。刃物は僕の右手首を薄く切り裂いた。マリーは再び微笑を浮かべる。月明かりは血をも青白く染めようとする。しかし、この月光の世界においても、血液の紅はけっして月明かりに屈しない。刃物はまた僕の別の場所を切り裂く。もう何処だって構わない。何処だって変わらないのだ。僕は痛みを感じることもなく、無表情のままこの儀式を受けている。マリーの背後の窓からそっと月が顔を出しているのが見える。僕は少女の顔を思い出そうと努める。失敗。どのように殺したのか思い出そうと務める。失敗。失敗は続く。既に僕は少女のことなど忘れていた。ただ僕が奪われていく感覚のみが、僕の身体を支配していた。
 
 ある朝、僕は近くの湖で顔を洗っていた。水面に映った自分の顔は常に揺れ動き、僕のものではないみたいだ。長らく、僕は僕の顔を見ていなかったので、僕は僕の顔についてそれが本物なのか、偽物なのか、判断することができなかった。おそらく、これは僕の顔なのであろう。しかし、違うような気がしてならなかった。僕は自分の顔を見ることに嫌気がさし、顔を上げて小屋へ戻ろうとした。その時、僕は草むらから獣の気配を感じとった。
 裸になった僕は椅子に座らされている。マリーは僕の足を持ち上げ、真剣に眺めている。僕の両腕は、椅子の背中で固定されている。しばらく眺めた後、一度部屋を出て、再び戻ってきた。マリーは右手にノコギリを持っている。僕の右足の親指を左手で固定し、ノコギリの刃を入れる。一引き、二引きとノコギリは僕の体に入り込んでいく。ノコギリの動きが遅くなる。骨にあたったようだ。しかし、ノコギリの動きは止まらない。前に、後ろに一定のリズムを刻んで刃は僕の身体と親指の関係を断とうと努める。
 僕は少女の身体から右腕を外した。続けて、マリーの指示で左腕にノコギリを入れる。少女は既に死んでいる。左腕も引き離すと、マリーは「目玉をくり抜いて」と指示を出した。僕の人差し指がゆっくりと少女の右目に差し込まれていく。
 明け方、僕は水面で顔を洗い終えた後、小屋へ戻ろうとした。すると、草むらが揺れ動いた。僕は何らかの獣がいるのだろうと思い、慎重に近づいた。
 僕の人差し指は少女の目をくり抜くことに成功していた。マリーはそれを見て、興奮していた。彼女は目玉を受け取り、手の中で転がして遊んだ。彼女の手の中で赤が広がっていった。
 ノコギリは既に骨を切断しており、僕の親指は床に落ちていた。親指の影は短く伸びていた。その影はもう僕と交わることはない。
 草むらが揺れ動く。草は高く生い茂っているため、何がいるのか確認できない。僕はゆっくりと近づく。

 マリーはゆっくりと少女に近づく。少女の表情には好奇心が現れている。彼女は期待しているのだ。マリーが施す快楽の全てに。マリーは彼女の顔を優しく撫でる。少女は身体をマリーに委ねる。二人の影は混じり合う。僕はドアの隙間からそれらを眺めている。
 親指がなくなっても、僕の影は何ら変わらないように思えた。マリーは僕の親指を拾って、手のひらで転がす。少女の目玉の時のように。マリーは親指の先を僕の目に向けて突きつける。僕は恐怖を感じない。僕は自分が奪われていくのを感じる。僕の精神は親指と僕の身体のどちらに宿っているのだろう。恍惚が僕を包み込む。あのときも、マリーは少女の目玉を僕の目の前に突きつけた。少女の瞳が僕を見つめる。二つの瞳の合わせ鏡が作り出す無限の世界。僕が少女と混ざり合っていく感覚。僕はマリーを見た。マリーの瞳には僕は映っていなかった。水面に映る僕の顔。僕はふと顔を上げた。太陽はまだ昇り始めたばかりで、森の草木にはまだ夜の闇がこびりついていた。僕が小屋の方に戻ろうとしたとき、黒ずんだ草むらのなかで、何かが蠢いた。僕は近づく。
 少女の両目は既に床に落とされていた。僕らは更に解体を進めていく。
 マリーは僕の口に僕の親指を詰め込んだ。激しい吐き気を感じる。涎が大量に出てくる。透明な唾液が口の中で親指に仄かに残された血液と混じり合う。僕は口からよだれを垂らした。赤く透明な唾液は月に染められて青白くなる。僕の右足、もともと親指があった場所からは依然として血が滴っている。僕は親指を吐き捨てる。吐き捨てられた親指は、完全に唾液で覆われており、性的な感じがした。僕はこれらの行為に一度も勃起してない。これらの儀式には、何らエロティックな要素はない。僕は被虐主義者ではない。マリーだって、これらの行為に快楽など感じてはいない。しかし、僕たちは続ける。少女の目玉は何処に行っただろうか。僕が知らない間になくなっていた。マリーが捨てたのかもしれない。或いは、僕が捨てたのかもしれない。いずれにせよ、もう手元にはなかった。マリーは、次に切断すべき場所を考えている。彼女は僕の体の周りを回りながら、細部を見つめている。僕は見つめられている間、少女の瞳のことを必死に思い出そうとしていた。少女の瞳は青色だった。艷やかで美しい瞳。その瞳は、多くのものを見てきたに違いない。僕の知らない世界をたくさん見てきたに違いない。外の世界は彼女の瞳より美しいのだろうか。
 僕は眼球が旅することを夢想する。眼球が飛行機のように飛び、世界の様々な場所を訪れ、ただひたすらに世界を観察する。世界で何が起きていようと、眼球には関係がない。
何が起きようと、彼はひたすら観察するのみにとどまる。
 吐き捨てられた親指。僕の親指を、僕は眺めている。口にはまだ、肉塊の味が残っている。やけにべとつく血液が、口内にこびりついている感覚がある。唾液の分泌が止まらない。僕は唾を吐き出す。マリーは、僕の手の拘束を解いた。「今日はこれで終わり」とマリー。彼女は僕の右足に包帯を巻いた。包帯はすぐに赤く染まった。
 僕は、茂みの中に近づいた。既に親指の傷は塞がっていた。茂みから、獣のようなうめき声が聞こえる。日が段々と登っているのを背中で感じる。茂みは宵闇を払い落とし、緑色を取り戻しつつあった。僕は雑草をかきわけて、茂みの中を覗いた。ほとんど光のない茂みの中で、男がうずくまっていた。

—1—

「茂みの中で男がうずくまっていた」
ここまで書いたところで、作家はペンを置き、立ち上がる。彼の疲労は限界に達している。彼はこれ以上この閉鎖的な環境にとどまることができない。しばらくして彼は外に出ようと決めるだろう。そして、自分の自転車がなくなっていることにも気づくだろう。というわけで、物語は始まる。いや、物語は始まるだろう。
我々が彼を次に発見したのはコンビニでだ。彼はコンビニにいる。そして彼は予想以上に自分の体調が悪いことに気づく。彼は周囲を見回す。愕然とする。周りの人間はとても元気そうだ。棚に陳列されたコーラを取ろうとしたとき、酷い吐き気に襲われ、彼はコンビニを飛び出した。路上に出た瞬間、彼は吐き出そうとするが、何も出ない。ひどく頭が痛い。頭の中がまるで水銀のように溶けて、どろどろと動いている。この重みに身体は耐えられない。彼は道にうずくまってしまう。誰も彼に声をかけない。突然、彼は鏡を見たいという欲望に襲われる。しかし、体は動かない。熱を帯びた身体は彼の動きを完全に拘束している。そのような状況でも、彼は物語を続けなければならない。書き続けることが、彼の唯一の存在理由である。彼は立ち上がり、街を歩き出す。歩みはとても遅い。何かを引きずっているようだ。すれ違う人々はスマートフォンを見ながら歩いている。かれらは自分たちの言葉をスマートフォンに打ち込んでいる。残念なことに、彼はスマートフォンを失くしていた。そのため、彼にとって言葉を記すものは、胸ポケットに入った小さな手帳と、ボールペンだけであった。しかし、それもいつかは失くしてしまうだろう。彼は再びうずくまる。先程から何歩歩いただろうか。彼は胸ポケットから手帳とボールペンを取り出す。物語を推し進めなければならない。
「僕は恐ろしいものを見てしまった。マリーがあの男に犯されている。彼女の裸体が月明かりに照らされて透き通る。僕はドアの隙間から彼らの性行を眺めている。青く白く無防備な彼女の身体はベッドの上に投げ出されている。静かに、波が起きる。僕はピンク色で淫靡な襞をまとった彼女のヴァギナを想像して勃起した。ズボンを下ろすと手は自然に動いた。右手にヌルヌルとしたものが付着するのを感じるが、それは僕の中でマリーの性液のイメージとリンクする。僕はマリーに欲情しているのではない。今、この空間の中で、僕は僕たちとなる。僕たち三人は一体となっているのだと感じる。月明かりが優しく、しかし力強く僕たちを包み込んでいた」
ここまで書いて、彼は手帳のページを破る。立ち上がり、歩き出す。彼は何かを探している。彼の歩みはあまりにも不安定で、何度か人とぶつかる。交差点まで歩いたとき、路上喫煙をしている男を見つける。彼は男にライターを求める。男は少し躊躇しながらも、胸ポケットからライターを取り出し、彼に渡す。彼は先程、破った紙切れに火をつける。彼の行動に驚愕した男の顔は、もはや彼の視界には入っていない。男は軽蔑するような目で作家を見つめる。炎は灰を散らしながら、次第にその勢力を強めていく。やがて炎は消え、すべては灰になる。今、彼の言葉は失われた。路上喫煙の男は既にいなくなっている。ライターは返せていない。しかし、作家にはライターを返すために、男を探し回る余裕は残されていなかった。間違いなく、彼には限界が来ている。頭の痛みは、どんどんと強くなっている。首を動かすたびに、脳内の胎動を感じ、吐き気に襲われるのだ。今では、彼の全身は異様な寒気に襲われており、震えが止まらない。横断歩道を渡ろうとするが、信号は赤を示しており、彼は再びうずくまる。寒気は更に強くなる。膝が笑っている。それでも、彼は書き続けなければならない。何故なのかは彼にもわからない。彼が何故震えているのかがわからないのと同様に。
しばらくうずくまっていると、彼に話しかけてくる男が現れた。男は警官だ。どうしましたか、と彼に問いかけている。彼はうまく言葉を話すことができない。唇は震え、脳は現実とは別のことを考えている。例えば、マリーのことを。警官は再度、彼に事情を尋ねる。
「救急車を呼びましょうか?」
彼は精一杯、唇の震えを止めて声を出す。
「親指がない」
残念なことに、この声はとても小さかった。そのため、警官は聞き直さねばならない。それ故、彼は答え直さねばならない。
「足の親指がないんです」
警官は笑った。
「そんなもの、なくてもいいじゃないか」
警官は立ち去った。しかし、実のところ警官は間違っていた。足の親指はなくてもいいものではない。親指、それは実に哲学的な理由で人間の尊厳に関わることなのだ。もちろん、作家は足の親指を無くしてなどいない。彼の両足は靴の中に隠れ、視認することができないが、しっかり5本揃っている。それを証明できなくて残念だ。彼の震えは、更に酷くなる。その間にも信号は赤と青を繰り返し、人々は行き交っている。作家は、胸ポケットから手帳を取り出す。なくなっている。ボールペンもない。今、彼が持っているのはライターのみだ。次第に、彼の調子が良くなってくる。自分の存在を確立できるようになってくる。いつしか彼は立ち上がれるようになり、自然に歩けるようになった。彼は自然な歩みで横断歩道を渡る。
このときの彼はもはや作家ではなかった。彼は作家であることを放棄した。言うなれば、彼は作家以下、作家失格の存在となったのである。つまり、今この瞬間にこの物語から作者は失われた。しかし、この物語を存続させるために、物語の中心点として彼を据えておく必要がある。だが、そもそも作者の周縁に存在すべき物語などというものは存在するのであろうか。つまり、この小説には、中心点としての作家もいなければ、その周縁としての物語も存在しないのではないだろうか。だとしたら、我々には何が残されるのであろうか。on n'ai pas…………?qui est……さぁ、物語を続けよう。我々にはその義務、あるいは責任がある。ただし、権利はないのだが。What est right light ou right light?もっと明かりを!そしてもっと権利を!我々にはライトが必要だ。あるいはライターが。
作家である重圧から上手く逃れた彼(もはや何者でもない彼)は、何故か持っていたタバコにライターで火をつけ、煙を燻らせながら、街を歩いていた。ふと、彼は右手に曲がり、ビルとビルの合間を抜けた。すると、彼は森の中へ出た。無論、街の中に森があるはずがない。つまり、森の中に街があったということだ。

—2—

 この物語は常に終わりに向かおうとしている。全ての物体が重力によって地面に向おうとするように、この物語は放物線を描きながら、常に落下を願っている。しかし、残念なことにこの物語には来るべき終曲などなく、完全に落下し切ることもできない。陸なき着陸。港なき航海。永遠に落下し続ける物語。その場に留まる事も許されず、落下し続け、かといって落下しきることもできない。
かといって、この物語が円環かといえば、それは異なる。なぜならこの物語には中心が存在しないのだから。中心になりうる作家は消失した。だからといって我々はこの物語の中心になるにしてはあまりにも不安定な存在だ。我々にはこの物語の流れに乗り続ける事が精一杯である。
 作家という中心、つまり絶対の法則を失った物語とはどのようなものだろうか。
 物語は今、宇宙へと投げ出される。

—3—

 僕はほとんど無意識的に男を蹴り飛ばした。親指のある方の足、つまり左足でだ。不意をつかれた男は蹴られた勢いで地面に突っ伏した。続いて僕は倒れた男の顔面を持ち上げて殴りつけた。二回、三回、殴り続ける。男の唾液と汗と血が混ざった液体が手に付いた。液体は地面にも染み込んでいる。太陽が昇りかけていた。僕の影が現れ、男の影と重なる。男は気絶したようだ。ここで僕はようやく赤く、腫れかかった男の顔をしっかり眺めることができた。見覚えのある顔だった。しかし、どこで見たのか思い出せない。男の所持品を漁ったが、ライターとタバコしか出てこなかった。上等そうなワイシャツとズボンを見るに、森に住んでいる人間ではなさそうだ。おそらく彼は街から迷い込んできたのだろう。僕は一度男から目を離し、背後に登る太陽を眺めた。その時だった。突然ある不安が僕を襲った。この不安には理由がない。なぜ僕がこのような不安に襲われたのかわからなかった。第一、この感覚を不安と呼んでいいのかも僕にはうまくわからなかった。しかし、この不安は僕の上に重くのしかかって堆積していた。僕は彼から奪ったタバコに火をつけて飲んだ。美味しいとは言えないが、タバコがこの不安を振り払ってくれることに期待した。しかし、それは叶わなかった。不安はなおも僕の体に染み渡っており、血液の流れと同様に僕の体を循環していた。激しい吐き気に襲われて、僕は崩れ落ちる。両手を地面につき、四つん這いになって吐き出す準備を整える。しかし何も出ない。全身が重たい。僕はこのままここで寝たいと思った。そしてその時、なぜか無性にあの少女の瞳を見たいという欲望に囚われた。あの輝く瞳、血に塗れながらもその美しさを失わないあの瞳にまた見つめられたい。そう思った。そして僕はこの欲望の裏側にある言葉の存在に気がついた。炎を纏い、消えゆく言葉。その言葉たちが僕を呼んでいた。僕の思考は瞳と言葉の間を、長らく行ったり来たりしていた。おそらく、実際の時間はそう長いものではなかったが、僕には異常に長く感じられた。引き伸ばされた時間。その時間の中で僕はほとんど無意識的にライターの火を付けたり、消したりを繰り返していた。
 どのぐらいの時間がたっただろうか。気づけばマリーが僕の隣に立っていて、僕にどうしたのかと尋ねた。マリーの顔を見た僕は次第に落ち着きを取り戻した。そして僕は自分の背後で依然気絶している男を指して、マリーに事情を説明した。そして立ち上がり、マリーと二人がかりで、男を小屋へ運んだ。僕はマリーがこの男を殺すだろうと予想した。そして、直接手を下すのは僕であろうということを予見した。或いはそれを願っていた。
 男を小屋まで運び入れると、男を柱に縄で縛り付けた。そして僕は自分の部屋に戻り、何か書くものはないかと探した。しかし、何も見当たらなかった。諦めて、ベッドに入ると再び吐き気に襲われ、全身の痛みを感じて動けなくなってしまった。頭が酷く重い。思考がうまく働かず、僕はそのまま寝入ってしまった。
 夢。その中で僕は泥の沼に溺れていた。何度抜け出そうとしても抜け出せない沼の中、僕は必死に顔を出す。しかし、再び自らの重みで沈んでしまう。無駄な努力。実に不毛な悪あがき。このような夢を、僕は第三者の視点から眺めていた。夢の視点である僕が溺れてゆく自分を眺めている。まるで他人事だ。次第に泥が溢れてゆき、視点である僕も沈んでゆく。二人の僕が泥を介して混ざり合う。僕たちは再び、一つになる。
 僕が目覚めると日は沈んでいた。夢の中での時間は数秒だったのだが、僕はかなりの時間眠っていたらしい。現実の時間と僕の時間が合わなくなってきている。目覚めた僕は、ベッドから起き上がり、マリーの部屋へ向かった。おそらく行われる儀式をするために。
 しかし、僕はそこで恐ろしい……(焼き尽くされ失われた言葉)。
 僕は部屋の中に入って抱き合う二人に近づいた。そして僕を見つめるマリーを右手で強く殴りつけた。彼女の唇から、赤が飛び散る。そして彼女の体液のついたそのままの右手で男を殴りつけた。そこから先は詳しく覚えていない。ただ、青白い世界に赤が拡大していくだけだった。赤は広がる。全てが曖昧になっていき、ただ赤だけがその輝きを増すばかりであった。
 気づけば、二人は横たわっていて、僕の手には月光色と赤色に染まった刃物があった。僕たちは月の洪水の中に溺れていた。僕は倒れているマリーに近づき、彼女の顔を覗いた。その瞼は閉じられていた。僕はその瞼をこじ開ける。指を突っ込んで瞳を取り出す。
瞳を月に掲げる。世界は美しかった。これからも世界は美しいままだろう。
 僕には今すぐ鏡が必要だった。

 突然ウンガレッティの詩が頭に浮かんだ。夜という題の詩だ。

  何もかも横たわって、やさしくなって、混ざりあってしまった。
  走り去る汽車の汽笛。もはや証人もいなくなって、ふと現れた、
  ぼくの素顔は、疲れて希望を失っている。

—4—

 我々が再び作家に出会ったのは街中であった。しかし、我々には作家が以前の作家と同じであるかを判断することはできなかった。彼は急いで自宅に戻ると文章を書き始めた。しかし彼は「ぼくは」と書き始めようとして、やめた。今や彼には彼とぼくを結ばない別の言葉が必要であった。
 今まさに、物語は始まる。
 ところで、彼の自転車はどこに行ったのだろうか?ペンは?手帳は?少女の瞳は?まあいずれ見つかるだろう。例えば、この物語の最後に。
 いつか終わりに辿り着く。そう信じて、我々は螺旋階段を上っていく。我々はもう二度と同じ場所には戻れない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?