解放のあとで 一通目 α

2020年6月8日

 緊急事態宣言、検察庁法改正案、アメリカでの黒人差別への抗議デモ……。コロナウイルスによるパンデミックが始まって以来、世界は加速している。この加速はコロナ禍に浮き彫りにされた諸問題のさらなる問題化と闘争の様相として現れている。5月25日、緊急事態宣言が解除されたことにより、我々は「解放」されたわけであるが、我々が放たれたのは激化する問題点におけるさらなる闘争の場なのである。そして、その闘争の場の特権的な空間としてのSNSの諸相が我々の前に現れてくる。SNSとは、〈剥き出しの生〉のまま投げ出された諸個人の間で、絶えず問題が表面化し続ける空間なのである。つまり我々はただ単に「解放」されたのではなく、より複雑な闘争領域へと投げ出されたのである。この書簡「解放のあとで」においては、このような「解放」後の世界における様々な問題や文学のあり方をリレー形式で考えていくものである。我々このような行いが何かしらの意味を生み出すものであると信じ、この闘争領域と向き合っていく。
 というわけで、本題に入りたいわけだが、コロナ禍を考えるにあたって明確にしておきたいのは、国際問題と国内問題、特に日本固有の問題を明確にわけて考えるべきであるということである。つまり、コロナの影響による世界の激変は国際、国内を巻き込んで行われるが、そこをないまぜにしてしまえば多くの問題を見落としかねないのだ。そのため、今回の書簡では日本固有の問題にのみ焦点を当てて考えていきたいと思う。
 まず、最初に指摘しておくべきは日本におけるコロナへの対応が多くの他の国で行われたロックダウンとは異なるということである。これは憲法上の問題で日本ではロックダウンを行えないがための問題なのだが、日本ではこのロックダウンがいわずとしれた「不要不急の外出の自粛」として現れている。しかし、我々が行った/行っているのは本当に「自粛」なのであろうか。本当の「自粛」ならば、我々は自らの意思で自らを律し、自らの行動を制限したことになる。この場合、我々の行動制限は自発的なものであり、それによって生じる問題は自己の選択によって生じたものである。しかし、我々はこの「自粛」が全くもって主体的な営みではないということを知っている。この「自粛」という言葉の中で、我々は感染拡大防止のための「社会責任」を課せられ、「自粛警察」などと呼ばれる輩などに監視されながら「自粛」を全うさせられる。そこには明確に「権力」の問題が関わっており、生政治が行われている。しかし、「自粛」というあたかも主体的な営みに偽装された制度によって、権力の動きは隠蔽されてしまっている。つまり、「自粛」による損失を個人の選択が招いた結果であるというように、個人の責任へ還元することが可能となってしまうのである。よって、現状東京で出されている「東京アラート」が経済活動を阻止するためのものではないのも、「東京アラート」自体が経済活動を再開させつつ経済活動を再開させることでの感染リスクの言い訳を用意するためであるからである。このように「自粛」という言葉には社会責任と自己責任の虚構を作り出し、我々に押し付けるのである。そのため、我々はより一層に「自粛」という言葉が持つ可能性について考え、その言葉の下流に存在する権力の動きに注目せねばならない。「自粛」という制度によって剥き出しにされた生の例外化は絶えず我々自体を政治に巻き込んでいくのである。ジョルジョ・アガンベンは、テロ対策に代わって、エピデミックが例外化措置の可能的要素となっているということを批判したが(『現代思想5月号 緊急特集感染/パンデミック』(2020、青土社)ジョルジョ・アガンベン(訳・高桑和巳「エピデミックの発明」参照)、このように感染防止と権力の例外化の問題は今後もおきるであろうパンデミックへ備え、捉えなおさなくてはならない。アガンベンについては先日『開かれ』を読み終え、現在『ホモ・サケル』を読んでいるところなのであるが、まだうまく文章化できるほどの理解ができていないので、ここではあまり掘り下げないでおく。権力の例外化の問題については『思想としての《コロナウイルス禍》』に収録されている大澤真幸の「不可能なことだけが危機をこえる」が、ベンヤミンなどの政治論を取り上げ、国家緊急権という観点から分析を行っているのでおすすめです。ここでは詳しくとりあげませんが、この論考で自分が注目したのは、自分たちの意見が代表されていないという不満が高まる時、その代表されていないという不満を代表する形で全体主義的な支配者が登場するという話です。これは世界的に注意しなければならない問題だとは思いますが、特に今の日本では首相の支持率が急激に低下しているので警戒が必要だと思います。
 次に取り上げたいのはコロナとは直接関係ありませんが、現在アメリカでおきている黒人差別への抗議デモについてです。これについても、単に国際的な問題というだけではなく、日本の固有の問題として考え直したいと思います。現在日本でもSNS上では『#blacklivesmatter』の名の下に黒人差別への反対の声が多数上がり、抗議を支援する動きが出ています。しかし、ここで問題として浮かび上がってきたのは日本における差別の他人事化と、「トーン・ポリシング」の問題です。差別の他人事化についてはあとで扱うとして、先に「トーン・ポリシング」について書きたいと思います。「トーン・ポリシング」とは、抑圧された人たちの抗議の声に対して発言内容ではなく「言い方」や「やり方」を批判し、「普通の」「平和的な」やり方で抗議を求め、発言の妥当性を損なわせるやり方です。もともと抗議をする人たちの意見は「普通の」「平和的な」やり方で声を上げたところで、抑圧によって打ち消されてしまうだけにも関わらず、批判対象に都合の悪いやり方をすればやり方を責められるというジレンマに立たされています。これが「トーン・ポリシング」です。(詳しくはウィキペディアの記事などをご参照ください『 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
』)日本のSNSの中では黒人差別への反対デモに対する「トーン・ポリシング」的な発言が目立っています。「メディアが取り上げない平和的なデモ」というような言い方で「平和的なデモが良い」というような意味を言語裏に孕んだ発言も一種の「トーン・ポリシング」でしょう。全然関係ないのですが千葉雅也が鹿野祐嗣に自身のドゥルーズ研究を批判された時に、批判の内容への批判ではなく鹿野祐嗣の文体や言葉の悪さを指摘してあざ笑うようなツイートをいくつかしていましたがこれも一種の「トーン・ポリシング」ですよね。そして次に他人事化ですが、日本においてはゆるーく「日本人」感覚が人種等の問題を不明瞭にし、さらに隠蔽しています。中曽根康弘や山崎拓、麻生太郎などの「単一民族国家」発言などはアイヌや琉球の問題を覆い隠し、ゆるーい纏まりとしての「日本人」という意識の典型ともいえる発言です。実際日本では多くの人が、「みんな同じ人間」という風に「同じ」であることの認識によって差別はなくなるという考えがあります。そのような「同じ」であるという意識の世界では「違い」は尊重されません。このような「同じ」であるという意識はマジョリティ側からすればマイノリティを尊重しているように見えますが、実際のところはマイノリティを抑圧しています。これはジェンダーの問題でもフェミニズムの話でもそうなのですが、日本では「違い」を不可視とするような認識の制度が存在するのです。多くの人が「差別する人/しない人」という純粋な存在があると考え、自らの無意識的な「差別」には気づきません。差別に意識的になり、それを是正しようとしなければ「間接的に」でも差別の加担者となるのです。かく言う僕もフェミニズムについて少し学んだ気でいたところ、以前女性の友人から「女性蔑視的な発言」を咎められたことがあります。僕自身としてはそのような意図で発したわけでもなく、むしろジェンダー的な観点から発言したつもりだったのですが、言い方と説明不足などが相まって、相手にはそのように捉えられてしまったのです。これはかなりショックでしたが、それでも自己の無意識的な差別に意識的になったエピソードです。やはり、質的にマジョリティに属するものは存在自体がある意味でマイノリティを抑圧してしまいます。ここに意識的にならなければ「違い」を尊重する世界は気づき得ません。自分は男性・ヘテロ・「日本国民」という日本国内で最大の質的マジョリティです。完全に役満です。このような自身の存在が持つ権力の諸関係について再度考え直さねばならないと思います。

 最後に文学について、「新しい生活様式」と絡めて、書こうと思ったのですが、初回で長すぎる文章を書いてしまっても申し訳ないので、今回の書簡はここまでとして、「文学と新しい生活様式」については次の自分の番で描きたいと思います。というわけで、今回の書簡はこれまでですが、次の金村さんにはあえて質問などせず自由な応答を求めたいと思います。

 ではまた、3週間後に。

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