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自分を認めることができてはじめて、心から周りの人たちにやさしくなれた

昔の私は、もらうことばかり考えていた。

飲み会とかプレゼントなどでお金を出すとき、内心できるだけ払いたくないと思っていた。運良く回収忘れてくれたらいいのにと思っていたのはいつものこと。

お金以外の行動という意味でも、気が付いても行動に移さず、出し惜しみばかりしていた。相手のちょっとした様子に気づいて声をかけるとか、さりげなく譲るといったことができなかった。そういうちょっとしたやさしさを表に出したとき、相手から変に思われたり、いつもと違うと思われることが怖かったから、何もしなかった。

たまに食事を取り分けたりお土産を買ったりはした。相手に喜んでもらいたいからやるというより、自分が良く思われたいからやるという意味合いが強かった。今この時に相手に何をしてあげられるではなく、「こうすれば○○ウケ間違いなし!」みたいなセオリーに従って行動していた。

相手に喜んでもらいたいというのは表面的な話で、本心では自分はできるだけ負担をしないで、相手に与えた以上のリターンを得たいと思っていた。我ながらひどい話だと思うけど、以前は自然とそんな考え方をしてしまっていたと思う。


そんな自分が心から相手のことを思い、やさしさを表現できるようになったのは、1年ほど前だった。

普通の大人たち100人が100日で1つのミュージカル作品を作り上げ、1000人以上が入る会場で公演を行うプログラムに参加したことがきっかけだ。

プログラムを実施しているのは、「個性が響きあう社会へ」を理念として掲げるNPO法人「コモンビート」。プログラムに参加する条件の一つに、多様な価値観を認め合うという考え方、団体の理念に賛同している人という項目もある。だから、ミュージカルの運営側も参加者にも、個性を認め合う雰囲気は前提として浸透していた。

そんな雰囲気の中進められたプログラムは、単にミュージカルの演目を完成させるだけのものではなかった。練習の中に、互いの気持ちを伝え合ったり、誰かの発信に対してフィードバック(感想)を伝え合ったりする機会が意図的にたくさん設けられていた。

初めのうちは、私はその雰囲気になじめなかった。自分の心の内を語ること、特に相手に対しどう思うかを伝えることは、相手にどう思われるかが怖くて本当に苦手だった。ミュージカルという特性上、役をもらえたり、発信力があって目立つ人もいるわけで、自分がそうではないことの劣等感も強かった。というかそれ以前に、やたらとテンション高く盛り上げてくる雰囲気が苦手でついていけなかった。

それでも練習に参加し続けるうちに、自分は自分でいいんだと思えるようになった。私はステージで目立つタイプではなかったかもしれないけど、仲間たちは私のいいところを見つけてたくさん言葉にしてくれたし、勇気を出して発言したことに対してたくさん反応をくれた。

それが本当に嬉しくて、私も皆のいいところや思いのこもった発言に対して、自分の気持ちを伝えようと思うようになった。相手の喜ぶことをしたいと素直に思えるようになった。


ミュージカルはコロナ禍の直前、ギリギリのところで無事公演ができたが、本番終了後一月ほどで、仲間たちと集まれる状況ではなくなってしまった。そういうわけで今は、個性を認め合う文化の浸透したコモンビートというコミュニティからは離れてしまっている状況にある。

それでも、自分は自分でよいと思えること、自分とは違った個性を認めて気持ちを表現できるようになったことは、今も自分の中に生き続けている。

気持ちよくお金を出し合うことができるようになった。気まぐれで贈っていた家族への誕生日プレゼントも、素直に楽しさや感謝の気持ちを持って贈ることができるようになった。小手先の「○○ウケ」テクニックに走ることも、相手のことを思って言動で示すことへの恐怖心もなくなった。


心の中に、やさしさを貯めておく貯金箱があるとしたら、過去の私は自分で貯金をすることができなかった。自分の貯金を使うことなく貯金箱をいっぱいにしたいと、もっともっとと欲しがっていたのだと思う。

今の私は、自分は自分でよいと思えるようになり、貯金箱を自分で満たすことができる。やさしさが充分に貯められてはじめて、周りの人たちにもやさしさを分けることができるようになった。


自分自身を認めて満たすことができれば、うわべではなく心から思いやりを持ち、表現することができる。私は自分の経験からそう信じている。

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