見出し画像

【創作ショート・ショート03】アヴィ

「うちの猫が危篤だから、あなたと別れようと思うの」
電話口でそう告げると、恋人は絶句した。ややあって、彼はこの上もなく慎重な声で答えた。
「今、なんて言った?」
「だからね、アヴィが死ぬかもしれないから、あなたとは別れる」
「どういう意味?」
私は、たった今雨が上がった中央大通りを急ぎ足で横切る。動物病院に向かっている最中だった。アヴィの容態が急変したとオフィスに電話があって、バタバタと帰り支度をしている間、私の体は絶望に浸かっていた。雨上がりの通りは、まだ10月の頭だというのに底冷えする寒さだ。
「……あなたと別れたら、アヴィは助かるかもしれない。そんな気がするから。……そう言った方が少し正確かもしれない」
恋人は心底理解できないようだった。
「アヴィは特別な猫なの」
思わず声が上ずるほど、私は力説した。
「あの子は何でもよく分かっているの。自分の名前も、自分の役割も、私のことも、あなたのことも。真っ黒な瞳で見透かしているんじゃないかって思うぐらいだったの」
「それは知っているよ。だって、しょっちゅう茉莉が話すから」

 恋人とは一年前に知り合った。三歳年上でやや強情で身勝手なところがあるが、博識で、何よりも人を愛するということをちゃんと知っている人間で、私は彼を愛している。
 一方私は、離婚歴のあるごく普通のOLだ。元夫とは5年前に別れた。私たちの間に子供はおらず、離婚話はあっけないほど簡単に片が付いた。そして私が元夫と別れた、まさにその日にやってきたのがアヴィだったのだ。
「困ったわ。昨日の夜から全く何も食べなかったの。ご飯が何よりも好きなあの子が、よ。それで病院に行ったら急性の腎不全だって……いったん預けて仕事に出たんだけど、たった今急変したって電話がかかってきてね」
水たまりがはねて、ストッキングにしみをつくった。落ち着け、と私は私に言い聞かせる。
「もうダメだわ。もう……ダメだと思う。電話の後ろがやけに静かだった」
「そこまでは分かるよ。もちろん茉莉が悲しいっていうのも分かるけど、どうして僕が茉莉と別れないといけないわけ?」
私はため息をついた。
「……もういいわ。ごめんなさい、忘れて」
病院の看板が見えてきて、私は自分でかけたくせに、この感情を説明することが途端に難しいように思った。アヴィが行ってしまう。私はきっと、彼女を引き留めることはできない。そのことばかりに心が囚われた。
「ちょっと待ってよ、良くないよ」
断固とした口調で恋人は言った。弁明を求めているのだと分かった。
「どうしてそうやって茉莉は僕を不安にさせるの?」
「……あのね」
私は少し歩調を緩めた。普段恋人と一緒に歩く速度で、私はアヴィを思った。アヴィはアイスグレーの毛並みをした、手足の長い美しい猫だった。もっとも平均体重をオーバーしていたのは、彼女のせいではなく、私の責任だ。なぜか電気コードが大好きで、私が叱るたびに拗ねるのだった。甘え上手で、そして素晴らしく頭がよかった。
 アヴィはいつでも何を求められ、また何を与えられているのか完璧に理解していた。その点で恋人は、端的に言ってアヴィ以下だ。

「アヴィはとても頭がよかった。いろんなことを分かっていたのよ。私がこの5年間一人で泣いて、一人で仕事をして、一人で暮らしてきたことをアヴィは知っているの。だってずっと一緒にいたから……」
うん、と恋人が辛抱強く頷く気配がした。
辛抱強さ、それは彼の美徳でもある。
「でもここしばらくは、私は一人で泣いてない。一人で悩むこともないし、今はもう孤独ではない……なぜだか分かるでしょう?」
恋人は黙っていた。彼が全てを理解してくれることを私は願った。これ以上、言葉にしたくはなかった。
 賢いアヴィは分かっていたに違いない。私は一人きりではなくなってしまった。アヴィが埋めるべき孤独はもはや存在しなくなってしまった。

「茉莉、それは冗談で言ってる?それとも本気?」
「冗談のつもりよ」
「悪い冗談だよ、それ。僕にも、アヴィにも」
そうね、とだけ私は言った。きっと恋人には分からない。恋人の存在が私とアヴィにとって、どれほど晴天の霹靂だったのかということを。
「分からないよ。僕には茉莉の気持ちのすべてが」
だけどさ、と恋人は続けた。
「僕は茉莉のそばにいるよ」
私は電話を切って、病院のエントランスに入った。すぐに飛んできた顔色の悪い医師に向かって、私は涙をぬぐって、ようやく笑いかけた。

この記事が参加している募集

スキしてみて

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?