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アマンタニ島のスローフード

  海にSUPを運ぶ途中で、少年たちと話してたら、一人の子が言った。
「今日、作文に、子どもだけ3人で釣りをしに行ったこと書いたら、こっぴどく怒られた!楽しかったことを書けって行ったのに。もうこれからは、楽しいことは何もありませんでしたって書こうかな。」

….もったいなさすぎる。文章が生まれたり、音楽が生まれたり、何かが生まれるきっかけっていうのは、だいたい、何かはみ出したときに、決まってんじゃん。

  水に入れておけばごきげんなわたしは小学校のとき、プールの授業が始まった日のことが嬉しくて、ニヤニヤしながらマッハで作文に書き終えた。それをさくっと褒められて、一発okで「遊んでよし!」になったとき、それまで泣きながら書いてた作文が大好きになった。

  その先生は高校野球も本気でやってた男の人で、授業中も、いろんな冒険の話をしてくれた。小学生のとき、ローラースケートはいて、道路を走るバスの後ろにこっそりつかまって、ビビューっっとカーブするとこで、手を離して飛び出すのがめっちゃ楽しかったこととか….

  心が動いたことを伝える、自分の表現ができたとき、そこにすうっと水をやってあげたら、その勢いは、一生続くのになあ、とそう思った。

  これは、十代の最後に、バックパックの旅で、感動したことをみんなに伝えたくて、夢中で書いてたら、センセイが、さらっと拾って、そのとき書いてた本に載せてくれた文章。(10代最後の旅の思い出より)

***

     忘れられない味に出会ったのはチチカカ湖に浮かぶアマンタニ島。
水道も電気もない、星のきれいな島で、ある民家に泊まった日の夕食だ。

・・・日が暮れかける頃、船乗りのお父さんがジャガイモをかついで帰ってくる。土のついた小さなパパス。待ってましたとばかりにお母さんがかまどに火をいれ、夕食の支度を始める。

   あたりはちょうど暗くなり、調理の火の周りに子供たちが集まってくる。
ケチュア語で家族の会話が始まる。学校の話とか船の話とかなのだろう、ひとりひとりの一日をシェアするのだ。(考えてみれば、こんなに情報が溢れている時代に、私は自分の家族が過ごした時間をほとんど知らないなぁ。)

   親子の会話。夫婦の会話。・・・私には何を話しているのか見当がつかない。それにおなかもペッコペコ。レストランならもうとっくに料理が出て食べ終わる時間だ。暖かい家族の団欒に感動しながらも、だんだんイライラしてくる。

  そんな「私の時間」は、古代文明の栄えた広い湖の上で、本当にちっぽけで、無力で、根拠がない。

・・・やっと出てきたのはじっくり煮込んだジャガイモやニンジンや雑穀のスープ。いびつな素焼きの器に入っている。家族の時間まで溶け込んだ、とても暖かい味のスープ。

・・・一ヶ月間、一度も日本に帰りたいなんて思ったことはなかったけど、その時ばかりは家族の顔が思い浮かんだ。食卓、それは多くの物語でできている。

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辻 信一 『スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化』 第七章「さまざまな時間」(平凡社)「アマンタニ島のスローフード」藤岡亜美 より

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