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いい文章にならなくて、記事が書けない時。


いい文章にならなくて、記事が書けない。


私は発信に悩む方の記事添削をしたり、個人ビジネスのゼロイチ(始める前から売上を立てるまで)をサポートさせてもらっている。



特にゼロイチをつくるフェーズにいる方とお話する時、「いい文章が作れないから、いつまで経っても投稿できない」という苦しい瞬間があるんだなと感じる。


発信あるある。RGが発信について歌うなら、結論はこれかもしれないくらいあるある。

書きたい、書けない。苦しい場面だと思う。


頑張り屋さんが感じる壁


そもそも、「いい文章が書けないから記事が出来あがらない」という悩みを持っているのは、まじめな頑張り屋さんなのだ。


テキトーなら「ま、いっか!投稿!」となるかもしれないところ、「まだまだ……」と推敲を繰り返す。

構成やテーマを考えている時点で「これじゃ伝わらないのでは?」と迷子になり、推敲まで行かない場合もある。


それで「もういいや、発信辞めよう」となる人もいる。

けれど、まじめな頑張り屋さんは自分の夢のために発信が必要なことを知っていて、諦めることもできない。未来のために、本当は書きたいから。


書けない、という悩みは、書きたい人だけが持っているのだ。



生い立ちの傾向


私はコーチなので、まじめな頑張り屋さんと関わり、日々対話を通して生い立ちを紐解いている。だから、まじめな頑張り屋さんになるに至った近い傾向がわかる。


  • 親が厳しかった

  • 批判されてきた

  • 失敗を許されなかった

  • 理想を押し付けられた

まだまだあるけれど、上記のあたりが顕著だ。ちなみに私もこう育てられた。


常に批判と監視に怯えながら、努力と根性でカバーしつつ、なんとか平均より上手くやることでギリギリ生き抜いてきた。

失敗は許されないと刷り込まれているので、途中経過を見せたり、自分の中でGOが出ない状態では動けない。フィードバックをもらうのが怖い。


しんどかっただろう、と心底思う。私はそのしんどさを知っている。


望まないステージに引っ張りだされて、望まない批判をされる辛さ。

上手くできないときの、冷たい視線の痛み。

上手くいったときの、「上手くいったのはあんたの実力じゃないんだからね」と手柄を横取りされるやるせなさ。

今こうして書き出すだけでも、思い出して心臓がキュッとなる。


自立したはずの今でも、その影響はなかなか和らいでくれない。



親元を離れたはずなのに、批判される習慣が強く刷り込まれているまま。自分の成果物に対して、当たり前のように批判プログラミングが動き出してしまう。あんなにされて辛かった対応を、自らにし続けてしまう。


このプログラミングの強度は人により様々。だけどこの記事をここまで読んでくれているなら、当てはまる部分があるのでは。どうかしら?


問題はどこ?


それでは、必要以上に厳しく育った私たちは、どうしたら発信の壁を越えられるのだろう。


まずは、「書けないと感じる問題点」を自分で認識していくところからかなと思う。ハードルは見えれば越えられる。私も実際そうだった。


①スマートに書けない


これは、弱みを見せられない人が感じるハードル。

コーチならかっこよくいなければ、間違った日本語に注意しなければ、読みやすい文章に整えなければ……と、スマートさにこだわってしまう。


もちろん、スマートに書けるならそれは素晴らしいことだ。


だけど、必ずしも必須項目ではない。拙くても届く。

発信を続ければ"発信筋"がムキムキになっていく。つまり、いずれは上手くなる。大丈夫。


②言いたいことが言えない


これは萎縮しがちな人が感じるハードル。


批判されないように、万人に受け入れられるようにと思うと、なかなかメッセージを伝えることはできない。

大切なことはそれぞれ違う。大切なことを語ろうとすればするほど、ある一方には届き、もう一方には届かないという現象は起こる。


発信の目的がビジネスであるなら、届けるべきは誰か?を考えるといいと思う。言葉が響かない、萎縮して言えない相手は、きっと私たちのお客様ではない。


③答えを持っていない


「語れるほどの経験がない」「明確な答えがない」という言葉もよく聞く。

それが「こんな自分が発信してもいいのだろうか?」という悩みにつながっている。


この場合思い込みのなかに、発信は知識がある人からない人へ届けるもの、という式が成り立ってしまっている。



そうすると、語れることがぐんと少なくなってしまう。


発信のなかには、悩んでいる姿や、仮説や、失敗があってもいいのだ。

というか、そこに人間性だったり価値観だったり、読者からすると「共感のフック」ができる。


なにより、読者さんはこちらが想定している以上に、自分に重ねて教訓に変えながら読んでくれる。

少しばかりかっこ悪い姿を見せたからって、離れる人ばかりじゃない。発信は、読者に解釈と距離感を委ね、信頼することでもある。


④書き方がわからない


きちんとした構成で、きちんとした日本語で、と思っていると苦しい時もある。

箇条書きだろうが、ポエムだろうが、読者の心に届いたら、発信の目的は果たしている。


発信は作文コンクールではない。

私は発信の中で、あえて「くそムカついた」などの、お上品とはいえない言葉を選ぶことがある。コンクールならアウトだ。


でも届けるのが目的だから、より寄り添えるのであれば、"きったねぇ言葉"でも使う。書き方に正解はない。


書き方がわからない場合、構成が不安なら、調べればライティングの型は出てくる。

私はそこまでガチガチにライティングの型に当てはめて書く必要性は感じていない。

けれど、型があった方が書きやすいのなら一度試してみるのもありだと思う。


最終的には「読者の目」に切り替えてチェックするに限る。どの順番で話が進んだ方が読みやすいか、わかりにくい表現はないか。


自分の発信を読者の目でチェックするのも必要だし、他の人の発信を、文字通り読者の目で見てみるのも勉強になる。

発信が上手な人は、ほぼ例外なく本や他の人の発信をよく読んでいる。


気分転換にもなるので、筆が止まった時には本や他の人の発信を読むのはとてもオススメ。ちなみにジャンルは全然関係ないので、読んでいて楽しいものでOK。


書き方に練習はあるか


書けない、を乗り越えるためになにか練習はありますか?と聞かれることがある。

どちゃくそ荒治療で申し訳ないのだけど、「書けない」には「書く」が一番効く。


しかしそんな答えは求めてないと思うので、少し私のしたトレーニングをば。


①日記を書く

日記を書く。シンプルだけど、意外とやってる人は少ない。

その際、もし誰にも見せないノートなどに書く場合は、とにかくネガティブな感情も正直に書くのがいいと思っている。


その辺りの詳細はこちら👇👇


もし、誰かに見せる形に挑戦するのであれば、出来事をピックアップしたり、少ないボリュームにしてTwitterを活用するのもあり。


ミニマムな発信を重ねて、「公開すること」に慣れていく。ただし、体感的にはTwitterの文章筋とブログの文章筋は違う。


きちんと想いを届けるのなら、どこかの段階で必ずTwitterよりもボリュームのある文章を公開することになる。


文章の練習ではなく、あくまでも公開に慣れる練習。そして、その後はTwitterはTwitter、ブログはブログで、それぞれのプラットフォームのメリットを活かした使い方が見つかるといいなと思う。


②守りたいのは何か?


前述したように、批判にさらされてきた人は、その可能性に大人の今も怯えている。

そういう人にとっては、発信は自分の安全を脅かすものになりかねない。


危険なことを避けようとするのは、本能として当然。

だから、どの行動で、何が守れるのか、をしっかり理解したい。


発信しなければ、たしかにアンチに遭遇したり、下手くそだと思われたりする可能性はなくなる。書かないことで、今の自分を守ってあげられる。


じゃあ、発信したとしたらどうか。


私は発信した先で、今の、そしてこれまでの、クライアントさんたちに出会ってきた。


私は、私に共鳴して近くに来てくれたクライアントさんたちを、手放しに信頼している。話すのが楽しみで、心から幸せになって欲しいと思っている。


これまでの人生で、仕事で関わる人をここまでまるっと全員好きだなとか、幸せになってほしいなとか、思えたことはなかった。


セッションを売ることは収入源。でもそれだけじゃない。その先の人間関係に、人生史上はじめての安全性を感じている。



長期的に見たとき、発信という短期的なリスクは、収入と安全な人間関係に変わり、自分を守ってくれるのだ。


だから、発信が怖い、安全だと思えないと感じた時には、今の自分を守りたいのか、未来の自分を守りたいのか……

ちょっとだけ意地悪な質問かもしれないけれど、考えてみてほしい。


③正解を求めない


どう書けばいいのか、という不安の裏には、「きっと正解がある」という期待があるのかもしれない。


私はこれまで、色んな媒体で色んな書き方や話し方を試してきた。


結局、長い文でも短い文でも、見出しが有っても無くても、ですます調でもそうでなくても、ビジネスライクでもウケを狙う発信でも、これこそが正解!という書き方や話し方なんてなかった。



どれも楽しんでくれた人からの反応はあるし、私には見えないけれど、スルーした大勢の人がいる。


正解を求めると、結果や反応が出るまでの間、全部が不正解な気になってしまう。


一般的な会社や組織の縦社会では、"正解"の立ち回りはあるのだと思う。けれど、こと個人での仕事には正解は存在しない。


正解を選ぶのではなくて、自分のしたことを、自分の正解にしていく。


そもそも、フリーランスや、副業だとしても個人ビジネスをはじめる人は、世間の正解に疲れた人が多い。

正解探しに息が詰まっていたはずなのに、同じような価値観を個人の活動に持ち込むのはもったいない。


完璧主義を捨てると、ぐっと楽になる。


④クライアントだったら


①〜③まで色々書いてきたけれど、結局これで解決する、という質問がある。


「自分がクライアントだったら?」である。


「上手く書けないから記事の投稿ができないんです。」

大切なクライアントがそう言ったとき、「そうですね、上手くないと投稿できませんもんね!」と言うだろうか。

上手くないとやってはいけない、と思い込んでいるクライアントに、「そうですね、上手くなるまでやめておきましょう」と言うだろうか。


もし想像上の答えが、もっともっとやさしく暖かい目線から来ることばだとしたら。それを自分にかけてあげても良いんじゃないかなと思う。


いい記事の定義とは


私は本の虫なので、たくさん本を読んできた。こどもが産まれて多少ペースは落ちたけれど、それでも普段から、本はいつもすぐ開けるくらい近くにある。

クライアントさんの発信や、好きな人の発信もよく読んでいる。



私にとってのいい記事は、読んだ時、読む前よりその人が好きになっているかどうかだ。


…と書いてみて、Nizi Projectのスター性審査のJ.Y Parkの言葉を思い出した。



J.Y. Park氏「スター性評価がどうなったら成功かというと、パフォーマンスをする前より、した後に、その人をもっと好きになったら成功です」――東京合宿 スター性評価にて、参加者一同に対して
Nizi Projectから学ぶ、必要とする人材要件の「言語化」の極意


どんなに美しい日本語で、道徳的な内容で、きれいな構成で書かれていたとしても。私は、その人の本心から書かれていない言葉には惹かれない。


私が誰かを好きになるのは、その人の本音や、ある種の変態性を垣間見ることができた時だ。




私はそうだけれど、どんな記事をいい記事とするかはそれぞれ違っていい。好きな服が違うように、好みの文章が違うのは自然だ。

だから、自分にとってのいい記事の定義を持っているといい気がする。


何がいい記事かと考えた時、テクニックが優先度高くなることはあまりない。

人間性とか面白さとか本音とか、自分にとっての大切なポイントを押さえていれば、書いていて大きく外れることはあまりないのではないかと思う。


ちょっと話はずれるけれど、夫はテレビ番組のカラオケバトルをよく見ている。

出演している方々は、本当に本当に歌が上手い。高得点を出すのが難しい精密採点で100点を出すこともざらだ。


けれど、感動する歌はテクニックとは別だなぁと思うことがある。


子供の歌う、少し音が外れた童謡に感動することがある。aikoの裏返った声にときめくことがある。歌唱力が今より低かった頃のももクロのライブで、心が震えて泣いたことがある。


人が感動するのは、何かが上手く仕上がっている時だけではないのだ。


それでももし、やっぱり書くのが怖ければ。上手くできているか不安な時は。私に連絡してください。

一回の添削でお金は頂きません(サービスの押し売りもしません)。


最初は発信するのが怖かったところから、書くのが好きでたまらくなって、今では発信でご飯食べてる私が、あなたと一緒にあなたのことを考えます。



途中で紹介した記事👇👇




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