にーな

精神疾患オンパレード 元風俗嬢で毎日死にたい生きたいの繰り返し 人間らしい生活をしたい…

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精神疾患オンパレード 元風俗嬢で毎日死にたい生きたいの繰り返し 人間らしい生活をしたいと望む人

最近の記事

その悲しみも悔しさもまた日常に溶け込んでゆく

高校3年生のとある日。 閉鎖病棟のテレビに映っていたのは、選手宣誓をしている小学生からの同級生でした。 小学校低学年の時はよく遊んでいたけどそれ以降はなんとなく同じグループに居て、たまーに話していた𓏸𓏸君。 あるスポーツで活躍していたのは知っていた。 でも中学生の私はたまに話すクラスメイトだったけれど、テレビに映っている彼は宇宙人のように思えた。 それくらい実感がなかったからか、見てはいけないものを見たと思い直ぐさまテレビを消し、病室に戻って毛布にくるまった。 泣いた。

    • 客に病んで客に生かされていた風俗嬢時代

      私は18歳~20歳まで風俗嬢だった。 自分で選んだことだ。とにかくお金が欲しかった。 身体を売ることに抵抗はなかった。 なぜなら高校生の時、売春していたからだ。 私は店舗型のヘルス店に務めた。 売春は誰も守ってくれないけれど、風俗は守ってくれるスタッフがいるという変な安心感があった。 面接の時、顔出ししたら保証金を1万上げてくれると言われた。 私は応じた。別に今更顔がバレようがどうでも良かった。 本当は何もかもどうでもいいという、投げやりな気持ちだった。 早速研修を受けた

      • 平成なのに体罰が当たり前だった私が通っていた中学校

        中学二年生の時、ソフトテニス部に所属していた。 試合のとき私のミスが多くて第一セットを落としてタイムに入り、顧問の元へ走った。 「死ねぇ!」と言われラケットで頭を殴られた。 私はその光景と顧問の表情、ラケット殴られた時の目がチカチカする感覚を今でもよく思い出す。 理不尽な体罰を向けられたことへの悔しさと、それでも部活を辞める勇気をもてなかった自分自身への怒り。 私の通っていた中学校は、他校から北○鮮学校と言われるくらい校則や教師が厳しいことで有名だった。 何故そんな厳しかっ

        • だって私生きてるし

          私はよく根は真面目だねと言われる。 根っこじゃない葉の部分は不真面目なのか、と言いたくなるけど私の性格は到底真面目と言えるものでは無い。 自分で言うのもなんだが、真面目に見せるのが上手いだけだ。 それで失望された事も沢山あったし、逆に気に入ってくれた人もいた。 私自身はそんな自分のなかにある、真面目と不真面目に葛藤と矛盾を感じていた。 昔から100か0、白か黒の思考だったから真面目か不真面目かどっちかに振り切ってしまいたかった。 そして、出来れば不真面目で居たかった。期待され

        その悲しみも悔しさもまた日常に溶け込んでゆく

          死にたくても生きていかなきゃいけない生きていくしかない

          私は何個か精神病の診断名が下されている。 中学生の時に初めて精神科を受診して、診断された病名。 今では説明するのが面倒なくらい病名がある。 最初は認めたくなかった精神疾患。 今はもう諦めとどうでもいいやという感情がある。 未だに認められないけれど、悔しいけれど、それを気にしていたら生きていけない。 毎日泣いて過ごす日々になる。それだけは嫌だった。 受け入れらないけれど付き合っていかなければならない病気と共に過ごして早ウン十年。 色んな薬を試した。 その処方薬を乱用した日々もあ

          死にたくても生きていかなきゃいけない生きていくしかない

          シラフで生きるにはこの世界はしんどさで溢れてる

          私は20代前半でアルコール依存症と診断された。 診断された時の私のγ-GTPは388だった。 目覚めてから眠りに落ちるまで、業務用のウィスキーを飲んでいた。 当たり前の結果だった。睡眠薬乱用もあったから直ぐに閉鎖病棟入院となった。 私が始めてお酒を飲んだのは小学3 年生の時。 習い事で帰宅するのが遅く、目が冴えて中々眠りにつけないと母親に言ったら、これを飲んだら眠れるからと言われて渡された小さなコップに注がれた梅酒。 一気に飲み干しベッドに入ると嘘みたいに眠りに落ちてい

          シラフで生きるにはこの世界はしんどさで溢れてる

          引きこもりの私に光を差してくれたのはお笑い芸人さんでした

          私は中学3年生から引きこもりで、高校生時代も通信制だったのもあって部屋に居ることが多かった。 私は不登校になるまであまりテレビというものを観たことが無かった。 母が見せてくれなかったのもあるし、習い事で帰宅が遅くなることも多々あったからテレビを観る時間が無かった。 不登校になって、昼夜逆転してよく深夜番組を観るようになった。 親が寝たのを見計らって静かに階段を降り、リビングで観るテレビは背徳感も増してとても私に快楽を与えた。 学校に行っても同級生の話題についていけなかっ

          引きこもりの私に光を差してくれたのはお笑い芸人さんでした

          私の中に時効なんてない

          私は小学4年生から6年生までいじめにあっていた。 中学生もいじめといじりの狭間で過ごしていた。 いじめのきっかけは私自身、正直きちんと分かっていない。 ある日、「男子と話す時ぶりっ子している」とクラスの女子のボスに言われた。私は男女関係なく話しかけたり、遊んだりするタイプだったのでその言葉を言われた時はビックリした。 それがいじめの始まりだった。 そのボスと手下達とは部活が一緒だった。 バレーボール部で、日中生活も放課後の部活でも気が抜けなかった。 ボスは私に男子と話すな

          私の中に時効なんてない

          ずっと何者かになりたかった

          『私は空っぽな人間だ』 そう思い始めたのは何時からだろう。 多分中学三年生の夏、不登校になった時だ。 学校へ行けなくなった原因は1つには絞れず、環境や人間関係あとは元々私が持っている心の容量の大きさにも問題があったのかもしれない。 学校へ行けなくなった…いや行かなくなったことに対して私は内心ホッとしていた。少ない友人との関係性に葛藤した部分はあったが、この頃の私は何もかも振り払って逃げ出して部屋に閉じ籠ることを優先した。 でも母は私が私の世界に籠るのを許さなかった。 私が逃げ

          ずっと何者かになりたかった