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死ぬ事が正解だと思って行動に移した日

死にたいと思った瞬間は数え切れないほどあった。
行動に移そうとしても、恐怖が勝ってしまってズルズルと生きていた。

17歳の12月26日、私は自殺未遂をした。
居酒屋のバイトから帰って来て、缶チューハイ1本飲みながら知り合いとテキトーな雑談の電話をして眠りにつこうと思っていた。

自分でもよく分からなかった。
電話を切った瞬間『あ、今すぐ死ななければ』と思った。
何の迷いもなく精神科で処方されていて、貯めていた薬を飲もうと引きずり出した。

でもその前に遺書だけは書かなければという気持ちがあった。
私を苦しめた奴らの名前とされた出来事を全て書いた。
そういうところは私らしいなと今では思う。

遺書を書き終えて、なるべく1回で沢山の薬を水で流し込んだ。
水と薬でお腹がタプタプになる頃にはボーッとしてきて、そのまま自室の床に転がっていた。

私が飲んだ薬の量は200錠以上だったと後から父に聞かされた。



目が覚めたら病院だった。腕に沢山の管が繋がれていた。
私は呑気に「バイト行かなきゃ」と言って起き上がろうとした。
起き上がれなかった。身体が言うことをきかなかった。
そこで母に「今が何日か分かる?自分のした事がわかる?あとバイトは暫くお休みすると連絡しといたよ」と言われた。
一瞬何が何だか分からなかったけど、母に「あなた4日間眠っていたの。内臓も全て停止して、心臓も痙攣していたのよ」と言われた。
マジかよっていう気持ちとまぁあれだけ薬飲めばそうなるわなという気持ちだった。

よく自殺未遂した人が目が覚めたら瞬間に、生きていることに絶望するみたいなことを聞くけれど私が絶望した瞬間は、起きてすぐトイレに行きたくて看護師さんに伝えたら車椅子を用意された時。

トイレのドアも開けっ放しで、用を足したら看護師さんを呼ぶ。
その時は本当に自業自得とはいえ、自分が惨めに感じたしなんで目を覚ましたんだと思った。

その日の夜、突然吐いた。
看護師さんから渡された風呂桶みたいなのに吐いても吐いても、止まらなかった。
医師から胃洗浄の提案があった。
本当はもっと早くしたかったみたいだか、私の意識が無かった為出来なかったらしい。

この吐き気からいち早く解放されたかったので、胃洗浄をした。
管を飲み込んで掃除機で胃の中を吸われる感じがした。
医師は4kg出てきたよと吐瀉物を見せてくれた。
なんでこんなに緑色をしているのだと思った以外とくに感想はなかった。

その後看護師さんが点滴を変えてくれる時に、何故吐瀉物が緑色だったのかを聞いた。
胆のうから出る胆汁によって緑色になるらしい。


入院中はお粥生活だった。
大晦日はガキ使を見ながら眠れない夜を過ごした。
元旦はおせちが出た。半分も食べられなかった。
姉と姪っ子甥っ子がお見舞いに来てくれた。
姉が私の好きなチョコレートを差し入れしてくれた。
姉に今五分粥だから食べれないと言うとびっくりしていた。
姪っ子はまだ3歳くらいで、私に自分の大切にしているシールを私の手の甲に貼ってくれた。
その時私はなんて馬鹿なことをしたのだろうと、初めて思った。


1月の半ばになって、退院の許可が出た。
でも両親の車乗せられて向かった先は、かかりつけの精神科だった。
私は酷く怒ったが、母は主治医からそう言われているからとしか言わなかった。
そして精神科に着いて、閉鎖病棟に入院となった。
前に何回か入院したことがあったから、大体のかってはわかっていた。
私は毎日本を読んで過ごしていた。
なにかしていないと、色んなことをフラッシュバックしてしまそうだし、虚しくなってにいてしまいそうになるからとにかく母に頼んで、本を差し入れしてもらった。
入院中カウンセリングとか受けながらいつの間にか3ヶ月入院して、やっと退院出来た。
バイトは店長が待っていてくれたのに辞めてしまった。
これからどう生きていけばいいか分からなかった。
夢も目標も無い。
だってあの時死んでるはずだったから。
でも私は今生きている。
この葛藤がとても辛かった。


そして私は今なんだかんだ生きている。
自分自身を見放そうにも見放せなかった。
でも何とかなった。
正直生きてて良かったとは今でも思えない。
そして人間は簡単に死ねないということを学習した。
だから私はもう自殺を図ることはないだろう。
この混沌とした世界でふらふら生きていくだろう。
前向きに生きることだけが
正しいわけじゃない。



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