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ずっと何者かになりたかった

『私は空っぽな人間だ』
そう思い始めたのは何時からだろう。
多分中学三年生の夏、不登校になった時だ。
学校へ行けなくなった原因は1つには絞れず、環境や人間関係あとは元々私が持っている心の容量の大きさにも問題があったのかもしれない。
学校へ行けなくなった…いや行かなくなったことに対して私は内心ホッとしていた。少ない友人との関係性に葛藤した部分はあったが、この頃の私は何もかも振り払って逃げ出して部屋に閉じ籠ることを優先した。
でも母は私が私の世界に籠るのを許さなかった。
私が逃げようとしても、手を掴んで離さず絶対に【普通の世界】から離脱させるものかという気持ちを表すかのように掴まれた手には力が込められていた。


私は幼稚園の時から習い事を複数していた。
自分からこれをしたいと言ったことはないが、母が勧めてくる習いごとに体験に行ってそのまま習うという感じだった。
その頃は特に不満や疑問を持たなかった。
まだ幼かった故周りの環境を把握しておらず、それが当たり前と思っていた。

そこから小学生になり、色んな習いごとを並行しながら成績についても口を出されるようになり、周りの環境と自分が置かれている環境は違うのかなと疑問を持ちつつ日々をこなしていた。
小学4年からは部活にも入り、日々の目まぐるしさが増して帰宅したらお風呂も入らずベッドに倒れ込むという生活をしていた。
中学2年まではそんな日々の繰り返しだった。

しかし、これだけやっても勉強も運動もまぁ人より出来るかな…くらいだった。
母はそんな私が許せなかったようだ。これだけ月謝を掛けているのに、送り迎えをしているのに、が口癖だった。
私は日々の疲れで上手く働かない頭でぼんやりと、あぁ母は私に1番を期待しているんだ、人より突出した何かを持って欲しいんだなと思った。

私といえばこれだ!というものを掴むために多忙な日々を過ごしたけれど、限界が来た。
精神、身体に支障をきたしてご飯もまともに食べれなくなった。
そして初めに書いたように不登校になった、なる道を選んだ。


不登校になって部屋に閉じこもってる日々は、安らげているようで安らげていなかった。
いつも頭の中にあるのは母の期待に応えられなかった自分の情けなさ、申し訳なさ、何にもなれない自分の存在意義。
自分で選択した【学校へ行かない】ということ。
母に涙ながらに勉強なら家でも出来るから、学校へ行かないくていいことを許可してくださいと言ったにも関わらず、ホッと出来たのは束の間で卒業まで罪悪感と虚無感の葛藤が続いた。
不登校になって初めの頃は、母も勉強だけはするようにと干渉していたが、私の抜け殻のような姿を見ているうちに何も言わなくなった。
たまに部屋から出た時に鉢合わせした時の母の目は、失望と軽蔑という言葉が瞳に書いてあるように思えた。
そうして卒業式には出ていないけれど、卒業はした。
私は自分の意思で、通信制の高校に進学した。
母はもう高校卒業さえしてくれればいいとだけ、目も合わせずに言った。


高校入学後は好き勝手過ごし、卒業後は直ぐに家を出た。
高校在学中も卒業後働いている時も、私の中には【何者にもなれなかった】という思いが付き纏った。そしてその考えが段々、私は空っぽだという考えに変わった。
色んな体験や方法でそれを埋めようとしても結局埋まらなかった。
そこで私は母の望む娘になりたかったのだと、嫌でも気付かされた。
それと同時に、これは呪いだ呪縛だと思った。
逃れようとしても逃れられなかった。ただ目を背けるしかなかった。


私が成人して数年後、母は家を出た。
元々両親の仲は良くなかった。
私は母が今どこに居るのか分からない。でも母も精神疾患を患っていたので施設に入ってるということだけは聞かされた。
正直私はざまーみろと思った。もう一生会うことも無いだろう。
そして、初めて母親からの呪縛について向き合うことが出来た。
精神科でたくさんの治療やカウンセリングを受けた。
入退院もたくさんした。今も治療とカウンセリングは続いている。
数年間続けてきて、やっと【私は何者にもならなくていい、何故ならもう既に私という人生を歩んでいるから】と思えるようなった。


私はいい歳した大人だけど、やっとその事に気づけたのだ。
周りからしたらとても遅いかも知れない。                でも私は悪夢から醒めたような清々しさがある。


やっと、やっとスタートラインに立てた。


おわり


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