父からの最期の手紙、父へと書いた最期の手紙
最期の手紙
厳しい校則のせいで怒られるかもしれないとひやひやしながら、制服姿にこっそりと厚底のパンプスを履いて空港のやけに綺麗な床を歩いた。その日は同じ国際科の同級生およそ80人とともにニュージーランドへの1年間の語学留学に旅立つ日だった。
1年も日本を離れることが嫌だった。好きなバンドや映画やファッションをおあずけすることになるからだ。当時、日本のバンドが好きでロリィタファッションを好んでいた私にとって少しでも日本から離れ慣れ親しんだ地やライブハウスから遠のくことに抵抗感があった。
この靴はささやかな反抗だ。お気に入りのゴシック・パンクブランドで買ったスタッズ付きのゴツい靴。これを履くだけで強くなれる気がした。見知らぬ土地を、この靴で歩こうと思った。
「前向いて歩きや」
母から注意され、やっと顔を上げた。少し先には同じ制服の女子たちが既に集まり小さな集団をいくつも作っている。しばらくの間、不登校だった私にとってはほとんどが親しくないただのクラスメイトたちだ。母は現地で同じ学校に配属される相手の親を見つけ挨拶していた。私はまた足元を見つめた。
出国ゲートの前に国際科の全員が集められ、教頭先生による挨拶があった。いつも厳しく制服の丈や髪色を注意してくる教師はそこにはおらず私はようやくほっとした。並んだ列のままでいよいよ出発の時間になった。兄弟や家族に手を振りながら既に泣いている彼女らを見て心のなかで心底馬鹿にした。たった1年間親元を離れるだけで何がそんなに悲しいのだろう。
飛行機が離陸しシートベルトのランプが消える頃にそのサプライズは行われた。高校の先生たちによって仕組まれたものだった。
サプライズの内容は、両親からの手紙。
それを受け取った瞬間に、斜に構えていた私がいなくなったと思っている。空港で泣いていた同級生たちはもちろん大声を出して泣き、離陸前まではその子たちを軽蔑していたくせに、私も嗚咽をこらえて泣いてしまった。
どんなにお気に入りの靴を履いていたって、私はたった16歳の弱い子どもでしかなかった。
この時、父は末期のガンを患っていた。
さらにその前の年には、私たち母娘を置いて単身アメリカへ家出までしてしまったのだ。
「捨てられた」と受け止めた私は、父と1年以上も口を聞いていなかった。
母からの手紙はとても簡素で1枚きりの便箋に丸文字で走り書きをしたものだった。とても母らしいと思った。昔から仰々しいことを恥じるのが母だ。
一方、父といえば私が生まれるより昔、母に宛てた年賀状にて哲学にまつわる洒落をメッセージに入れ込むような男である。この今生の別れというタイミングで私に対して簡素なわけがなかった。便箋3枚ほど、私に対しての「手紙」を書いてくれていた。
私が空港で同級生たちに冷たい視線を投げかけた理由はここにあった。父との別れはもうすぐそこだった。ガンを患った父からの手紙には、私の父となった賢二さんという一人の40代の男性が娘にかける言葉以上のメッセージがこめられていた。
「9月にニュージーランドで家族3人で会おう」という約束は、今の今まで忘れていた。
父は、私がニュージーランドへ向けて出発した1月よりたった数ヶ月後の5月に亡くなってしまっている。
9月なんて、来なかったのだ。
そして父の願いも虚しく、私は最期まで突っぱねていて手紙やメールを一切しなかった。
「また手紙を書きます」という父の言葉は叶わず、父からの手紙はこれが最期となった。
棺に入れた父への手紙
父へ書いた最後の手紙を棺に入れました。危篤の知らせを受けて留学先から日本へ帰国しましたが間に合いませんでした。
父からの最期の手紙にすら、返事をしていない。父はあれだけ「家族に戻れた」「家族の絆を守っていこう」と言ってくれていたのに。
今日読み直してここに書き写して、なぜ私はちゃんと父に向き合わなかったのだろうと後悔ばかりが押し寄せてきます。
実際、棺に入れるため書いた手紙はほとんど懺悔でした。
アメリカ・テキサスとメキシコの境目の音楽「テックス・メックス」というジャンルでアコーディオンを演奏していた父。家では常に父の演奏するアコーディオンの音があり、音楽に囲まれて育ちました。ただ、私の半生において父の音楽をあまり聴いたことがありません。というのも、地元のお祭りで演奏した日には同級生にからかわれるし、父のライブへ行くと「あなたが噂の娘さん!」というような扱いを受けるし、恥ずかしかったからです。
前述のとおり、留学前の14歳の頃に父は私と母を日本に置き去りにして単身アメリカへ行ってしまいました。音楽の夢を追いかけるためです。
友人伝いにFAXで「さようなら」と書かれた手紙が届いた時には父はもう機上の人で。「手紙」としては人生で一番最悪なのがその身勝手な内容のそれです。そんな父のことを「家族を見捨てた父」としか思っていませんでした。この時からずっと父の音楽を聴くことができなくなってしまいました。
月日が流れ、母は父と和解し、ニュージーランドへの留学が決まった頃、父のガンが発覚。思春期であり反抗期でもあった私は父の闘病や迫りくる死から目をそらし続けてしまいました。
前編「最期の手紙」につながります。
留学中、危篤の知らせがまず1回あり帰国しました。その時は持ち直すことができてまたニュージーランドへ戻ることとなります。その数ヶ月後に再度知らせがあり、また日本へ一時帰国することに。次の日の朝のフライトで帰ることになった、その夜のことはよく覚えています。モーテルといって、車ごと宿泊できる施設に、まだ高校生の私に付き添いしてくれる現地在住の日本人女性とともに泊まりました。空には三日月がくっきりと浮かんでいて綺麗だと思った記憶があります。寝る前にテレビで流れていた映画「パール・ハーバー」を観ました。人があっけなく死んでいく映像と、日本を敵国とするアメリカ人。なぜかそのシーンは父の記憶とともによく脳裏にて再生されます。
母は病院にいるから空港についたら担任の先生と一緒に来て、という話だったので、あまり好きではないその男性の先生と二人で電車に乗るのは嫌だなとか考えていました。が、空港にいざ着くと、母がいたのです。やつれてやせ細った母。なぜ母がそこにいるか、そのことに気がつくには私は未熟すぎました。
つまり、父の死に目にあうことができなかったのです。既に病院からも引き上げて、祖母宅に移したということでした。
父が亡くなったという実感がわかず、祖母宅までの記憶はおぼろげです。
亡骸は、眠っているようでした。病院着からいつもの私服(テキサス風。テンガロンハットをよくかぶっていました)に着替えさせてもらった父が眠るように、そこに「あった」のです。
そっと触れてみると、驚くほど冷たかった。
私が大好きな父のあたたかな手はもうどこにもありませんでした。
棺に入れるための手紙を書きました。何を書いたかはよく覚えていませんが、冒頭で話したとおり「懺悔」がほとんどでした。父の音楽をちゃんと愛せなかったこと。家出のあとは恨みしかなくて、ちゃんと話せなかったこと。それでも話しかけてくれたのにほぼ無視してしまったこと。最期、会えなくて親不孝してしまったこと。パパのことが大好きだったこと。泣きながら書きました。
私はパパのことが大好きでした。
本当にごめんなさい。
お葬式前、骨を拾うことも拒んでしまいました。というかどうしても行けなくて、行きたくなくて、怖くて、待合室で泣きながら寝込んでいました。あれだけあたたかな存在が、骨になってしまうなんてそんなに残酷なことはないと思いました。
結局、父の夢は叶わず、音楽も世に埋もれてしまっています。
レコード会社との契約が切れたのか、父がアメリカで出したCDアルバムがYouTubeにあります。
それを見つけた時、「パパが天国でユーチューバーになっちゃったよ」と笑った後、寂しくなって少し泣きました。
先日、ハリウッドへ企画書を出しました(脚本家の上司がハリウッド進出を予定し、現地に持って行く何本もの企画のうちの一つでした)。
その内容は父が黒猫として現世に戻ってきて、猫の手ではアコーディオンを弾けないから代わりに弾いてアメリカで演奏してくれ、と頼まれる主人公の物語です。夢は大きくマディソンスクエアガーデン。父が亡くなって塞ぎ込んでいた主人公が一念発起し遺品のアコーディオンを黒猫から教わり、テキサスにいる親友の助けを得ながらアメリカで成功していくというロードムービーです。
ハリウッドとはいわずとも日本で映画化できたらいいな、なんて思っています。
今年の目標は、そういった父との物語を長編小説として世に出すことです。
どうしても書きながら泣いてしまうけれど、完成させることが父への恩返しになると思っています。
たとえ、まだ遠く離れていても、心のなかでつながっている限り家族は成り立ちます。
パパからの言葉が、2023年の今に届く。
心のなかでつながっているから、どうか天国から見守っていてください。
私はもっと頑張って、父の物語と音楽を世界中に届けます。
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