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海を見たいともがくだけ【短編】

 当然だ。「別れたい」君から届いたメッセージ。
 ここ数か月、君と休みを合わせることが出来なくて、ずっと会えていなかったから。それでも、マメに連絡を取っていたら、よかったのかもしれないけれど、出来なかった。仕事が終わったら、少しでも早く帰宅して、食事をして入浴して、一分でも長く眠りたくて。余裕がなかった。その程度の気持ちだったのかと問われそうなので、言い訳には出来ない。だから、僕は
「ごめんね」
 そう一言、返信した。
 既読にはなったけれど、返事はなかった。

 君と別れてひと月。夏が終わろうとしている。それでも暑さだけは居座っている。早く秋に席を譲れよ。なんて図太い神経をしているのかと、刺すような光を撒いている太陽を睨む日々。
 君と海に行く約束していたっけ。
 ふと、思い出した。結局、叶わなかった。
 何年、海を見ていないだろう。僕が生まれ育った街は、海が身近にあったから、毎年夏に海へ行くのが恒例だった。それが夏というものだった。
 社会人になり、この街へ移り住んでからは、夏に海へ行くということが、どんなに難しいかを思い知った。海へ行くには電車で三時間。その為に休みを取り、早起きをして、移動することを考えるだけで苦痛だった。僕の故郷では、海は自転車で15分の距離にあったから。なんて恵まれていたのかと思う。
 海を見ない夏を、何度過ごしただろう。ただ暑いだけの夏。それを毎年繰り返していくたびに、僕の中の何かにぽっかりと穴が空いているような気がしていた。しかも、その穴は、毎年、大きくなっている。
 海を見なければいけない。そう思った。だから、僕は、次の休みに行こうと決意した。だが、台風が発生し接近していた。僕が見たいのは荒れ狂う海ではない。諦めた。

 海へ行くのを諦めた代わりに、僕は水族館へ来ていた。台風の影響でかなりの大雨であった。幸い、風はそれほど強くはないが、それでも、水族館へ到着する頃には、傘を差していたにも関わらず、服は濡れてしまっていた。
 そこで僕は、水族館の売店で、イルカ柄のタオル、Tシャツ、靴下を買った。タオルで濡れた身体を拭き、着替える。
 おしゃれとは言えないイルカ柄のTシャツを身に着けて歩くのは、少し恥ずかしい。しかし、平日で、しかも悪天候である。客は少ない。濡れたシャツと靴下のまま歩き回る心地悪さよりはマシだと自分に言い聞かせた。

 幻想的なクラゲに見惚れたり、イワシの群れに圧倒されたり、優雅に泳ぐマンボウやエイの姿に癒されたり、僕はそれなりに楽しんでいた。客も少ないし、ゆったりと楽しめる。いい休日の過ごし方じゃないか。そして、イルカの水槽の前にやってきた。
 仲間たちと楽しそうに泳ぐイルカ達。僕はその姿を見て、子供の頃、友達と海で遊んでいた楽しい時間を思い出した。あいつら、今頃、何をしているのだろう。しばらく、連絡を取っていない。今度、地元へ帰ったら、飲みにでもいけたらいいのに。
「お久しぶりです」
 不意に声を掛けられ、現実へ戻される。
 若い女性だった。隣には彼氏らしき男性がいる。
 誰だっけ。見覚えはある。
 必死で記憶を呼び起こそうとしていると
「七海の友達です」
 女性は君の名前を口にした。そうだ。一度、紹介されたことがあった。
「あ、お久しぶりです」
「七海とは最近会ってないんですけど、元気にしてますか?」
 どうやら、僕と別れたことは知らないらしい。
「えっと、俺も、最近会ってなくって……」
「あ、そうなんですか。じゃ、よろしくお伝えください。では」
 何となく察知したのかもしれない。気まずそうに、女性は僕に頭を下げて、男性と一緒に去って行った。
 僕は、自分の着ているイルカのTシャツの裾を指で引っ張った。
 多分、あの女性は、この後、七海に連絡をするだろう。水族館で僕に会った事を伝えるだろう。そして、七海は、もう別れたって打ち明けるだろう。
「マジで?どうして?」
「全然会ってくれないから」
「一人で水族館来るヒマはあるのにね」
「私の為には時間を作ってくれなかった」
「そんな奴別れて正解だよ。今日だって、ダサいイルカのTシャツ着てたよ」
「何それ、ウケる」
 そして、笑いものだ。このまま、接近している台風に飛び込んで、どこか遠くへ飛ばされてしまいたい。

 翌週の休み。その日も新たに発生した台風が近づいており、海へ行くことは諦めた。代わりに水族館へ行くこともしなかった。今年も、海を見ないまま、夏が終わるのだろう。
 
 数日後、僕はいつものように会社へ向かう。暫く休みは取れそうになかった。繁忙期の上、人手不足だから仕方がない。
 駅に着き、改札口を通って、いつものホームへ向っている時、僕は確かに、聞いた。
 潮騒。
 僕は足を止めた。行かなければ。海へ。今すぐ。
 僕の中に空いてしまった穴は、どんどん大きくなっている。今、海へ行かなければ、その穴に僕自身が飲み込まれてしまう。
 走り出した。いつもとは違う方向へ。
 今日は、快晴。風も穏やか。きっと、海の水面は光り輝き、潮騒は優しく穏やかで、潮の香りは濃くて、砂浜はあたたかく柔らかい。


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