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坂道【掌編】


 私の自宅前には、かなり急な坂道がある。行きは下り坂、帰りは上り坂。そのため、仕事が終わり、疲れ切った身体を引きずりながら、上り坂を登り切り、ある種の達成感と共に帰宅するのが日常である。
 今日は、朝から雨だった。仕事が終わっても雨はまだ降っていた。傘を差しながら歩き、自宅前の坂道に辿り着く。見上げた頂上に我が家がある。明かりが点いている。いつものように妻が夕食を用意してくれているだろう。5歳の息子も待っている。時間的に、先に二人は夕食を済ませている頃合いだ。入浴も済ませているかもしれない。今頃、妻は息子の髪の毛をドライヤーで乾かしているのではないだろうか。愛する家族が待っているのなら、この急な坂道を登る甲斐もあるというものだ。
 見上げた坂道のアスファルトは、雨で濡れ漆黒だ。街灯の白い光が滲んでいる。雨の滴が坂道を滑り落ち、転がって、私の足元で大きな水たまりを作っている。
 水たまりを覗くと、雨の滴が幾重にも波紋を広げ波打っていた。時折、私の姿がぼんやりと映し出される。疲れ切った自分の姿はあまり見たくはない。水面に靴底を滑らせて、私の姿を消し去ろうとした。
 すると、私の足首を誰かが掴んだ。誰かとは、自分だった。水面に映った自分は、しゃがみこんで、私の右足首を両手で強く握っている。表情は影になって見えない。どういうつもりなのだ。
「離せ」
 私は足首を振り、手を振り払おうとするが出来ない。足首を掴む手に一層力が入っただけだった。
 頭上から音がした。鈴の音だった。見上げると、坂道から鈴が一つ、また一つ、もう一つと転がり落ちてくる。そして、私の足元に集まっていく。
 銀色の鈴だった。足首を掴まれていない方の左足で、鈴を蹴ってみる。爪先に当たったはずなのに、何も感触がない。蹴られた鈴は、そのまま水たまりの底へ沈んでいき、姿を消した。
「行くなよ」
 自分の声がした。いや、本当に自分なのだろうか。私の足首を掴んでいる男の声は、とても悲しげだ。
「どうしてだ」
 私はその男に問うた。答えはない。
「どうしてなんだ」
 もう一度問う。すると、足首を掴んでいた手の力が緩む。男の姿も消えていく。鈴も消えていく。水たまりに広がる波紋も消えていく。
 私は傘を閉じる。雨が止んでいた。
 今のは何だったのだ。私は再び坂道を見上げる。そして、声を失った。
 頂上にあるはずの我が家が消えている。どういうことだ。
 坂道を駆け上がる。湿った坂道を蹴り上げる。夜空に私の必死の足音が反響する。何事かと、雲の切れ間から月が様子を伺っている。
 息を切らして頂上へ着いたが、やはり、我が家はなかった。ただの空き地だ。
 何故だ。何故だ。何故……。
 私は、額から流れる汗を手の甲で拭う。月明かりに照らされた私の右手。人差し指から、何か滴が滴っている。
 掌を広げて見る。赤黒い。ぬるりとして生暖かい液体が掌を覆っている。
「何だよ、これ」
 左の掌も広げる。同じように赤黒い液体で覆われている。両手でお椀のようにすると、赤黒い液体が水たまりを作った。その水面に、一つの波紋が広がった。空から、また、雨が一滴落ちて来たからだ。
「ああ、そうか」
 私は理解した。


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