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いつまで経っても僕ら青春のド真ん中で銀杏BOYZ聴いてたっていいじゃないか

雨上がりの真冬の夜の底を泳ぐように歩いているときに聴きたくなる音楽というものが、もしかしたら青春の象徴なのかもしれない。それは僕にとってのガガガSPとか銀杏BOYZとかOASISとかで、人生の終幕、エンドロールの背景でいい感じの音響で流してほしい音楽でもある。

青春を、笑いものにしはじめたのは一体いつからだっただろう。青臭い春を、ダサくて格好悪いものとして定義したのは誰だったのだろう。ロッチ中岡がいつまでも青春にしがみついている未練をのこした中年を「青春ゾンビ」と揶揄したのは、どうしようもなく青春というものと自分という文脈が乖離したことへのわずかな反抗だったのかもしれない。そもそも「反抗」という単語そのものが、多分に青春をはらんでいるものだけれど。

青春と黒歴史。青と呼ぶには黒ずんでいて、春と定義するには手垢のついた黒歴史。黒というには青臭すぎて、歴史と呼ぶには浅すぎた春。そんなレトリックをいじくりまわしている間に、僕は随分と年を取ったように思う。何をやっても中途半端で(中途半端、というのは「ある程度の上達は見込める」という自惚れを多分に含んでいる)、とにかく何でも長続きはしなかった。

青春をついやしたコトに継続して取り組んでいる人――例えばかつて学生起業家だったヒトや、バンドマンや演劇屋とか、落語家とかが、いつまでも青春しているように見えるのは、ひとえに青春の延長線上を彼らが歩んでいるからだろう。世の中の多くの人は、過去の青春と決別すると同時にそいつに「黒歴史」というテプラのラベルをぺたりと貼って、見えない暗い場所にずずいっと追いやる。歴史というのは、えてして分断されるものだ。

何かを意志をもって辞めることがあまりにも下手くそだ。バイトもサークルも恋愛も、きちんとした手続きを踏むことなく自然消滅を待っていた。辞めることは始めることの何倍も手間と労力がかかる。新卒で入社した会社も、どうにも辞めることができなくて「つらい辞めたい帰りたい」と呟きながら働き続けて、今年やっと倒れた。「やっと」というのは、非常に実感のこもった言葉で、倒れでもしないと休むことも辞ることもできないのだ。僕は、僕が倒れるのをずっと待っていた。

疲れて倒れて何もかも嫌になったときに残っていたのは、文章だった。10歳から書き始めた小説を書くことは青春だったかもしれない。24歳で書くのを辞めてしまったから。オリジナル小説を書きはじめてわずか半年だった。自然消滅だった。黒歴史にすることもできたけれど、少なくとも過去の文章は青春に置き去りにされたままだった。なんでもそれなりに器用にできると思っていた自分は、本当は「できることが極端に少ない、辞めることが下手な大人」だったのだ。人生を面白おかしく愉快に過ごすためには、手元に残ったわずかなことで生きていかなくちゃいけない。僕は今も文章を書いたり、書けなかったり、やっぱり書けたりしながら暮らしている。

月は綺麗で星も出ている。僕はこんな夜にイヤホン耳に当てて銀杏BOYZを聞きながら、青春のド真ん中でダメ人間として踊っている。怒りとともに思い返すような過去もないくせに。テメェの青春くらいは長続きさせたいな、とか思いながら。