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『誰かを助ける』という事の中毒になるのは良くないし、その関係に依存するばかりに被害者になってしまっては元も子もないという話

自らの存在に不安を持っていた。誰かに必要とされたかった。中島みゆきの「エレーン」をよく歌っていた。生きていてもいいですか?と問いたかった。

何もかも失ったと思った時、それでもこの世を去る事を選ばなかったのは、私がそれを選べばその事に傷つく人が居るとわかっていたからだった。

宗教に救いを求めた挙句に、10才の私と7才の弟を残して自らこの世を去った母の轍を踏むことなどできない相談だった。

誰かのために存在することには喜びがある。その喜びは何ものにも代え難いけれども、そこで問わねばならない。

その喜びに中毒になってしまってはいないか?それをくれる誰かに依存してはいないか?そしていつのまにか自ら被害者になってしまってはいないか?

もしその相手が去ってしまっても、もう助けが必要では無くなった事を心から喜べるのか?

それらすべての問いに対する正直な答えによっては、まず自らを助ける必要性があり得る。

常にそれを心に置いて検証している。

自らを、そして他者をも損なわない為にも。

まず自ら立つ自分軸が無ければ、誰かの助けになる事などできないと思い知ったから。

世界的なこの疫病によってもたらされた現在の状況のおかげで自らをかえりみる時間には不自由しないから。

まずは自らを満たしてゆけばそこから溢れ出るなにかがおのずから『誰かの助け』になると信じて。

そうすれば、与えられる当てのない見返りを求めて苦しむ事とか、尽くした誠や傷ついた過去を数え上げて恨みつらみに悶える事もない。

尽くした誠が本物であれば、いつかどこかでそれは報われると信じている。




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