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好かれる努力はしなくていい、嫌われない努力を

子どもは、標準か標準でないかに分けられることが多い。お腹に宿したときからだ。産科医から「頭の大きさが、標準より小さいですね」、無事産まれても、「うちの子の体重、標準だって」と、ママ友に言われてドキリとしたこともある。

健診では小児科医に「発語が、標準と比べて遅いですね」、自治体の健診でも「歯が生え始めるのが標準と比べて…」と。地域差や時代にもよると思うが、わたしのときは、言われっぱなしでフォローが少なかったから、親としていちいち不安になった。

自分の子どもが中高生になったら、「標準かどうか」なんて、ほとんど悩まなくなったが、それにしても「標準」に敏感な親は体感的に多い。子どもが小さいうちは、身体の成長について。中高生になると、学力のことで。

自分が子ども時代もそうだったが、「標準」以外は生きづらい世の中になっていると感じる。「標準」以下は標準を目指し、「標準」以上は、そうであることを黙っている。まわりから妬まれたり、嫉妬されたりするから。なんなら、まわりは「標準」以下まで引きずりおろそうとする。

すべての条件で「標準」にぴったり当てはまっている人間なんて皆無だ。人の成長は、ある程度でこぼこしていて、いびつな形をしている。大人になってから急に能力が伸びたり、失速したり、停滞したりして、伸びしろは本当に人それぞれだと思う。

子どもが成長して大人になり、社会に出たあとも、「標準」の考え方は世間に蔓延っている。「標準」は、「そのやり方、考え方がフツウだよ」という言葉に置き換わる。

ここで、「標準」や「普通」についてさんざん考えた挙句、子どもに伝えている言葉がある。「友だちや先生、まわりの人に好かれる努力はしなくていい。嫌われない努力を」と。

気の合う人とは、今いる環境や心の状態で、お互いに自然とにひかれあう。標準か標準でないかなんて関係ない。しかし、嫌だなと思っていても、標準かどうかの物差しで付き合うと、結局うすっぺらい関係にしかなれない。

「標準を目指して生きていく。いいよ、それでも」と思う人は、世の中に大勢いると思う。「標準であること」=「群れること」で安心につながるし、自分は正しいという基準になるのかも知れない。

自分の考えかたは「標準」ではないかも知れない。ただ、「なんか違うなぁ」と思ったまま、生きたくない。そんなの時間の無駄だ。まわりからの同調圧力を、うまく利用して立ち回りたい。「心が震える」、「心の底からわくわくする」体験を毎日していきたい。

「万人とうまくいく人はいない。嫌いな人とは、ちょうどいい距離を保つ。ただ、あいさつはしよう。あと、自分がひとより劣っているとか、優れているとか思わなくていい。先生はクラスの子と比べるだろう。それでも、自分のなかでは比べないで」そう子どもに伝えている。標準ではない、もっと自由な世界へ飛び立ってほしいから。





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