ときめきを無くしたカメラロール
生活とともにある写真
私は写真を撮ることが好きだ。
写真に特化したSNS、Instagramの普及により、写真を撮ることが日常的になったと感じる。
所謂「SNS映え」と言われる可愛らしいスイーツや美しい夜景をこぞって撮っていれば、ドドン!とこのインターネットの大海原に放流させて自慢したいものだが、生憎私のカメラロールにそんなものは存在していないみたいだ。
お気に入りの部屋の写真。
喫茶店のナポリタンとウインナーコーヒー。
友人からの嬉しいLINEのスクリーンショット。
なんら特別感のない道端の花。
雑草生い茂る公園。
物陰からじっとこちらを伺う野良猫。
私のカメラロールは、
そんな日常で埋め尽くされていた。
カメラフォルムフェチ
私が写真を好きになったきっかけは、
「カメラのフォルムが好き」
というなんとも不純なものだった。
四角く角ばった形に真っ黒なまあるいレンズ。
なんとも無機質的なその存在に、とにかく惹かれた。
どのくらい惹かれていたかというと、
小学生の頃は、カメラモチーフの小物を見つければすかさず購入し、ガチャガチャはコンプリートする勢いで見つけ次第回し、ビール1ケースについてくるオリンパスカメラのストラップ欲しさに父親にねだっていつもは飲まない銘柄のビールを2パック分(半ば強引に)飲んでもらったほどだ。
ちなみに、カメラメーカーは多数あれど、私にとってのデジタルカメラNo.1は、オリンパスペンの白色カメラだった。(写真左側)
ボディの白と差し色となっているベージュ(ゴールド?)の色合いがとにかく可愛い。
うん。今見ても完璧に可愛い。
カメラという大きな括りにすると、ダントツNo.1な存在として私の中に君臨し続けるのが、Dianaである。
フィルムトイカメラというマニアックな類ではあるが、定番カラーである黒と水色のカラーリングがなんともシックで、チープな印象を受け取られがちな"トイカメラ"というカテゴリを一掃している気がする。
(ちなみにゴールデンハーフも捨てがたいぐらい好き)
他にカメラの思い出として印象深く残っているのは、中学時代に「2眼カメラ」、大学時代に「暗箱カメラ」の現物を初めて見たとき…。
あの時の興奮を今でも鮮明に覚えているほどだ。
と、まぁこのように私はカメラのフォルムに対して偏愛を持っているわけである。
(カメラのフォルムフェチと自称していた。)
親からは、カメラフォルム狂いではなく、「カメラ好き・写真好き」として認識されていたため、大学入学祝いとして「一眼レフを買ってあげようか?」と言われたほどである。
親にもちゃんと言ったが、
「上等なカメラで綺麗な写真を撮りたい」と「カメラ(フォルム)好き」は必ずしも共存しないのだ。
そう、私は、カメラフォルム狂いなだけで、写真の技術も知識も全く持ち合わせていなかったのだ。
もちろん入学祝いの一眼レフの提案も断った。
後に、自分の誕生日に購入したDiana miniを私は愛して止まなかったので、この決断は英断だった。
写真を撮る、ということ
知識のない私にとって、細かい設定ができない、ただシャッターを切るだけの「トイカメラ」は、まさに理想のカメラだった。
そしてトイカメラは一時期ブームだったこともあり、いろんな種類が出回っていて、ウッキウキでいろいろと吟味して購入していたことを覚えている。
(当時、牛乳パック型のトイカメラ、魚眼レンズトイカメラの購入を迷っていたことを今思い出した。それらを我慢して限定版のゴールデンハーフを購入した私は賢い…)
カメラフォルムフェチな私だが、やはりカメラを手にしたからには、シャッターを切らずにはいられなかった。
おもちゃみたいな小型のカメラを片手に田舎町を歩いてシャッターを切る。
その目的は、"綺麗に美しい写真を撮ること"ではなかった。
私が愛する無機物を手に、
"自分の意志で、自分のタイミングで、そのシャッターを切ること"
それが目的だった。
今手にしているこのカメラが好きなのだから、そのカメラが写してくれる光景に、どんなノイズが入っていたとしてもその写真を好きでいれる自信があったのだ。
そして、地元のショッピングモールに入っているカメラのキタムラで現像をしてもらった。
フィルムカメラは、撮った時に完成品を見ることができない。
そのため、自分の思った通りに撮れているかどうかがその場ではわからない。
まさに、その瞬間を切り取る、一期一会な写真となる。
ワクワクドキドキしながら、現像された写真を受け取った。
(ちなみに私の密かな夢として現像室に入ってみたいというものがある。それ故、大学時代は写真屋のアルバイトを探していたのだが、その夢は未だ叶わずにいる……)
受け取った写真を見てみると、手ブレやノイズ、焦点の合っていない写真たちばかりだった。
「私、写真撮るのこんなに下手なの!?」
と驚いた。
カメラ初心者とはいえ、親のデジカメや一眼レフを借りて実家の猫を被写体に何度か写真は撮っていたし、我ながらなかなか良い写真が撮れたと思っていた。
もちろん写真の知識皆無の素人なので全てオートフォーカスだったのだが、それなりに写真のセンスがあると思っていた。
受け取った写真をまじまじと見つめると、その1枚1枚にシャッターを切った時の記憶が色濃く残っていて、お世辞にも綺麗とは言い難い景色が映った写真が、なんとも愛おしく感じた。
カメラのシャッターを切って目の前の景色を切り取って残すと同時に、その時の記憶(温度や匂いや感情)、写真に写っていない写真外の背景や思い出までも写真の中に記憶させているのだ、と気づいた。
そこから私はどんどん"トイカメラ"延いては"写真を撮る"という行為に惹かれていくことになる。
カメラロールアルバム。
スーパーの帰り道、ふと目があった野良猫にカメラを向ける。
ライブ開始までの時間潰しに寄ったカフェで食べるご飯を写真で記録として残す。
携帯電話が生活に欠かせないようになり、携帯のカメラ性能が上がったことにより、写真は私たちの生活とともにあるものとなった。
今では、カメラ性能に全振りしている一眼顔負けの携帯電話が売られているくらいなのでびっくりする。
(持ち運びを考えると携帯機器にどデカイレンズがついている様はかなり歪だが、正直その歪さに少し惹かれたりもした…)
トイカメラやデジカメを持っていなくても、携帯で写真を撮る機会が増えた。
写真は、私にとって記録だ。
理由は分からずとも心惹かれた瞬間を記録しておくために、シャッターを切る。
だからこそ
私のカメラロールには、なんの変哲も無い草木や青空。どこにでもありそうなナポリタン。それらが当たり前のように存在する。
記録であり、手軽に覗くことができる、形ある"私の記憶"である。
カメラロールを遡れば、その時の自分が何をしていたのか思い返せる、簡易的なアルバムみたいなものなのだ。
昨年の夏に帰省をしたのだが、帰省前からリクエストしておいた植物園に連れていってもらった。
植物園では携帯とトイカメラを片手にとにかく写真に収めまくっていた。
「この瞬間、この景色を撮りたい!」
そう思ったからシャッターを切った。
誰かに見せびらかすわけでもなく、
自分が「いいな」と思った光景を記録として残しておけるように。
記録であり記憶である写真。
そこに残る光景は、どれも私のときめきの具現化だった。
"なんかいいな"という光景を私は写真として残す。
私はシャッターを切ることで、
自己表現をしていたのだ。
自己表現を手放した日
noteのヘッダー作成に使える写真の選定も兼ねて、日常の記録に溢れかえったカメラロールの整理を行なった日のこと。
ざーっと過去に遡って、仕事でのメモがわりのスクリーンショットや体温計の写真なんかは削除して、必要な写真だけフォルダわけをしていった。
どんどん写真を選択して仕分けを行なっていて、ふと気づいた。
私が撮っている写真、
そのどれもが、驚くほどつまらないものだったのだ。
メモがわりのスクリーンショットと体温計の写真の山。
CD発売日やライブ情報のスクリーンショットと購入検討の小物類の写真。
暗い照明下、写されているコンビニスイーツ。
自分でも驚くほど、何もない写真だった。
心惹かれるものなんて、微塵もなかった。
このアルバムにときめきなんて存在しなかった。
「なぜ?」疑問が頭によぎって、撮影時期を見てすぐに納得をした。
その時期はちょうど私が会社に対して不満を感じ、心が悲鳴をあげていた時期だった。
私は我慢をしてしまう性分で、何かと溜め込んでしまいがちなのである。
それ故、心とは真反対のことをして、自分で心を傷つけることを平気でしてしまう。
心と反対のことをし続けると、心は簡単に死んでしまうのだ。
心が死ぬとどうなるか。
私は文章が書けなくなった。
自分の気持ちと向き合うことが下手になった。
自己表現をすることが、できなかった。
つまらない写真しか残っていなかったのは、
つまり、自己を表現することを手放していた、ということなのだ。
なんでもっと早くこの異常に気づかなかったんだろう、、
そんなつまらない産物が羅列しているカメラロールをスーッと上にスクロールして、今、つまり2022年4月の記録に戻ってくる。
新しく買ったCDや雑誌。
昨日作ったナポリタンと歪な形のスコーン。
商店街に佇む野良猫。
決して華やかでは無いけれど、
決してつまらなくない日常がそこには溢れていた。
ノイズ混じりの愛すべき世界へ
別に誰かに見せなくたっていい。
華やかで艶やかで美しい光景でなくたっていい。
私は、自分の"好き"を記録する手段として、
形ある"私の記憶"として残すため、
目の前にある"何か"に惹かれてシャッターを切る。
私にとって写真は刹那的な自己表現であり、自己証明だ。
一度手放してしまった表現を2度と手放すことがないように、
改めて私は自分と向き合う。
片手に収まる小さなおもちゃみたいなカメラは、やっぱり愛おしい。
このプラスチックレンズに映るノイズ混じりの世界が、私が今生きている美しい世界だ。
きいろ。
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