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「好き」という感情がエンジンになる!

あの言葉はキツかった。

高校進学の時の話。
何を言われるのか心配で肌がビリビリするくらいの
緊張を味わう三者面談日を翌日に控えていた。

スポ根中学生女子だった私は部活に専念するあまり
勉強をしなかった。人生で初めてチームという
一体感が心地良すぎてハマっていた。

ご想像どおり成績は良くない。一番の苦手が英語。
正直、勉強が嫌いだった。

それでもテストは何とかこなしていたし、
なんとかなるだろうというフワフワ感の
中で過ごしていた。

そして断崖絶壁からドンと背中を押された三者面談。

今でも言われた言葉とどんよりした空気感を
ハッキリ覚えている。

「英語はクラス最後から2番目です。進学するなら
この夏が最後の時間ですよ」

えー!ドンびり!

そう、クラス最後の一人は病気で入院していたから、
実質は私が英語ドンびりだった。

担任の言葉が衝撃すぎて、視界が真っ白に
なったのを覚えている。母は横でハンカチを
握りしめたまま横にいる私をにらんだ。

言うまでもなく、家までの道のりは重苦しい
雰囲気で会話は一切なかった。
母との距離が地球の表と裏くらいに感じた。

その夏、奇跡が起こった。

80年代に一世風靡したアメリカポップ界の
女王マドンナとの出会いだ。

ミュージックビデオが全盛期だった頃、
偶然見かけたTV映像にくぎ付けになった。

今までにない圧倒的な存在感とカッコいい。
そのダンスセンスとルックス。
一瞬で大ファンになってしまった。

遊んでいる暇などない最後のチャンス時期に
何をしてるんだ!と過去の自分に言いたい
くらいに夢中になった。

でもこれが大きな転機をもたらしてくれた。
彼女の曲を聴くたび、何を歌っているのか知りたい、
もっと知りたい・・・・。

”知りたい”に火がついた。

受験の夏シーズンは誰も遊ばず夏期講習に行く。
大半が家で勉強をしている時期。

だから私は一人でマドンナに浸れた。
苦手だった英語の曲を聴きまくったのだ。

何度聴いても飽きることなどない。
完璧にマネした発音で歌詞を見ずに歌い切る。
そんな曲を1曲でも増やしたい!

「好き」を見つけて初めて心が燃えた。

受験勉強に熱が入ってきた。
過去問題も何度も何度も繰り返しても
嫌にならない前向きな気持ち。

これは全て「好き」を見つけたサイドエフェクト。

そして驚いたことに3ヶ月ほどで高校受験に合格した。
そこからの3年間はまるで別人のように勉強した。
”させられる”勉強でなく”する”勉強だ。

この頃には流行りの洋楽は歌詞を翻訳して
歌っていた。曲を聴いて発音をととのえた。

「好き」は人生を変える力がある。
好奇心をエンジンにして加速させる方法は
テキメンに効く。

希望していた英文科の進学もあっさり合格。
そして新しい目標ができた。

ぜったいにアメリカに行く!

今から30年以上前は今ほど”語学留学”が
お手頃ではなかったし、費用もその方法も
斡旋している企業も少なかった。

もちろん両親は大反対!

一人でいきなり海外なんて・・・。
生活も全て英語なんて無理に決まってる。
押し問答が日課になってしまっていた。

それでも諦める気持ちはなかった。
必死に独学で学んできた英語を
このままで終わらせたくない。

どうせならアメリカに飛んで本場で私の英語が
通じるのか試したい!
半年間、ありとあらゆる言葉で両親に伝え説得した。

行き先はロサンゼルス、映画とエンタメの街。

語学留学期間は3ヶ月、ホームステイで学校に通う。
これが初めての”ひとりミッション”だ。

地元から成田空港を経由し直行便で
ロサンゼルスまでいきなり一人ぼっち渡航した。

ロサンゼルス空港に着いたのは金曜日。
迎えにきていた現地学校のバンに乗って、
ホームステイ予定の家まで案内された。

ここが運命の分かれ道。

ホームステイは現地家族との相性が超重要になる。
慣れない文化と生活の違い、家族構成、何があっても
英語しか通用しない環境。

だからこそ、日々の生活基盤になる”家”が
精神的にも勉強にも大きく影響するからだ。

Hello, Welcome!

といきなり抱きしめられて面食らった。
とにかく歓迎ムードの家族。サーファーのパパに
小説大好きなママ、そして同い年の女の子、キム。

正解を引いた!

緊張から口の中はカラカラになり、自分の名前を
言うだけで精一杯だったが、洋楽と洋画好きが
うまくかみ合って、ホームステイ先家族も
気に入ってくれたみたいだ。

家に案内されるなりキムが「海に行こう!」と誘ってくれた。
そう、海岸へ車で5分の距離にある最高の立地条件。
憧れの西海岸!

もちろん私の返事は「イエス」

時差ぼけと初めての留学の緊張から体調を考えて
ビーチでぼんやりと過ごすことにした。

カラッとした空気感、青い海と空、緑がキレイに輝き
典型的なロサンゼルスの夏。

キムが海で泳いでる間、ビーチの海風に吹かれながら

「ここから新しい私が始まる。やっとここまできた。
だから3ヶ月間は何ごとも”YES”で通すぞ!」

そう心新たに誓っていた。

2時間ほどビーチでくつろいだ後、帰り道にピザ屋さんに
よって夕食を調達した。全てが新しくワクワクしていた。

ところが家に帰ってからすぐに気づいた。
体の前面(A面)が真っ赤になっていた。

日焼けをしてしまった!

あまりの心地よい海風に気づかなかったのだ。
しかもロサンゼルスの気候は日本に比べて湿気少なく、
ドライがゆえに日差しがかなりキツい。

買って帰ったピザをほとんど食べることができないほど
日焼けはどんどんひどくなった。

最悪だ!

しかも熱まで出始めた。悪寒がして鳥肌がたつ。それが
日焼けあとにひびいて痛みがいっそう増した。

パパとママは心配そうだったが、日本人とは肌が違うし、
慣れている日差しなのでキムはさほど何もない。
彼らにとっては特に大きな問題には映らなかったようだ。

なんとか英語でこの状況を伝えなければ・・・

焦る気持ちと裏腹に、熱でクラクラする頭では
英語すら考えつかない。持ってきた辞書で
調べようとするが、体の芯から発熱していて
気力が続かない。

なんとかして日焼け用のローションを分けて
もらわないと意識がなくなるかもと真剣に
命の危機を感じた。

必死で単語だけをメモに書き写し、
家族から渡されたのが日焼け用クリームだった。

ウソでしょ?!

赤く腫れ上がりそっと触れるだけでも
飛び上がる痛さの肌にクリームを塗るなんてムリだ。
不安としんどさで涙が止まらなかった。

「帰りたい・・普通に痛いと言える日本に」

ママが「国際電話で両親に連絡する?」と
聞いてくれたのでとにかく両親に状況を国際電話した。

母は心配そうな声で・・・・

「帰るって言いなさい。入院になったら大変やから」

そう言った。この時聞いた日本語ほど安心したものはない。

どんな思いで送り出してくれたのだろう。
なのに私は何をしているのか。
母の声を聞いて決心した。

今、この選択がこの先を変える。


熱と痛みで話した内容は細かく覚えていないが、
「心配かけてごめん。だけどこのまま残って
最後までやってみる」そう伝えた。

その日は夜通し日本から持っていったありったけの
タオルをバスルームのシンクにためた水で
濡らし、何度も何度も頭と体全体に被せて体の
熱をとり続けた。

肌にのせたタオルは数分で乾いてしまうほどの熱だ。
発熱でノドも乾き、息はハアハアと上がるばかり。

持参した解熱剤を飲んだがすぐには効かず
フラフラしていた。どこにいるのかさえわからなく
なってきた。

それでも最後までやる!と決めた気持ちだけは
揺るがなかった。

翌日、パパとママに頼みショッピングモールに
連れて行ってもらった。

まだ熱は下がっておらず、真っ赤になった顔は
腫れ上がりまぶたがあがらない。

手を3cmほど体に近づけるだけで熱を感じるほど。
そんな体に服を着たり、靴下をはくだけでも
30分はかかった。

しかもその体でサンサンと輝く太陽の下を
歩くことになる。
正直、正気でないと思った。

ドラッグストアについてすぐに日焼け用の
薬売り場に直行した。
そこで再びパンチを食らった。

そう、全て薬の効能は英語表記だ。
ボーッとした思考状態な上に商品の裏側に
ある小さな英語表記の効能を見なければいけない。

それでも、あれこれ言っている余裕などない。
明日から学校だ。このまま倒れるわけにはいかない!

レジコーナーにいた店員さんに下手くそな
英語で声をかけた。

エクスキューズミー!アンドヘルプミー!

これが精一杯だった。
私の2倍ほど大きな体格の定員さんが私を見た。

オーマイガット!何があったの?大やけどじゃない!

一瞬で気を引くことができた。

当然と言えば当然なくらい、真っ赤なアジア人。
誰から見ても”大やけど”状態だったのだから。

OK、OK! 痛いのね。薬よね。

ここでまた問題がある。
国が違えば市販薬でさえ自分の体質に合うかどうか
わからない。

いったいどんな薬があるのだろうか・・・・。

そんな時ハッとひらめいた。
そういえば子供の頃、火傷をしたとき母が
バルコニーの鉢植えで育てていたアロエを
切って火傷に当ててくれたことを。

アイニードアロエ!!
アイニードスプレー!

やっとの思いでアロエのイラストがある薬を見つけた。

これだ!

その棚にあるアロエスプレーを全部胸に抱えて
レジに向かった。一分一秒でも早く熱を発している
自分の肌にこの薬をスプレーしたかった。

レジを打ちつつ、定員さんが声をかけてくれた。

ユーガットサンバーン(大やけどしてるわよ)
この薬をしばらくは続けた方がいいわ。
早く良くなってね。

このとき思った。
下手くそな英語も人種も関係ない。
心はつながれるものだと感極まって涙が流れた。

薬も手に入った。
あとは気力。体を手当しながら学校へは通う。
そう決めた。

翌日から始まったクラス。
いきなり真っ赤な体で現れた私は良くも悪くも
名前を覚えてもらうのが一番早かった。

本当なら緊張と慣れない環境で話す勇気など
持てなかっただろう。けれどサンバーン(日やけど)の
おかげで話す話題に困らなかった。

カリフォルニアはあまり雨が降らない。
毎日、輝くばかりの太陽のも発熱と肌の痛み対策を
しながら学校に通った。

一日たりとも授業の欠席はしない。
フィールド学習も欠かさず出席。宿題もこなした。

誘われる勉強会やオリエンテーション、家族同士の
食事会も必ず参加した。

ここまで来てムダに終わるのだけは嫌だ。
半分、ヤケクソになっていたと言っても嘘ではない。

サンバーンの苦しさで下手くそな英語を話すことに
恥ずかしさとか迷いなんて言ってる余裕がなかった。

それが功を奏したのだ。
勝手な解釈で”英語は伝えるためにある”と思い込んだ。


それから2週間後、少しずつ熱が下がり始めて
肌の色も黒くなりはじめていた。
痛みは減ったが、今度は恐ろしいほどの脱皮状態。

ひょっとしてこのまま私は別の生き物に変わってしまう
のかと思うほど分厚い皮が浮き、めくれ始めていて、
遠目に見ると白く見えた。

赤→白の脱皮

笑いごとでないほどの肌の状態。
二の腕の皮がボロッとめくれ落ちた時は血が出てる
のではないかと思うくらい分厚い皮。

ママはとても驚いて、会社で使うプレゼン用の
アクリル製クリアシートを持ってきて一言。

これに皮を挟んでおきなさい。すごい思い出になるわ!

励ましとも何とも言えない言葉に、なるほど
これが文化の違いか・・と一人納得した。

少し痩せてしまったが健康を取り戻してきた
3週間目の週末。どうしても行きたい場所があった。
そう、あのドラッグストア。

辛かった時に差別なくフラットな気持ちで
接してくれた女性定員さんにどうしてもお礼が
言いたかった。

店に入るといつものレジにいた彼女はハッと
私に気づいてくれた。

ワオ!よくなったのね!よかった!

そう言ってハイタッチしてくれた。

覚えていてくれたの?と聞くと、

「もちろんよ!あんなサンバーンのお客様は
あなただけだもの」

恥ずかしさと同時に覚えていてくれたこと
が嬉しかった。

下手くそな英語でも友達ができた瞬間だった。
それから彼女とは仲良しになった。


3ヶ月間はあっという間に過ぎた。
サンバーンは肌に定着して別人のように
真っ黒になっていた。

生活にも慣れて第二の故郷のように感じ始めていた。
学校は順調でクラストップの成績が取れていたし、
学校以外でもキムを通じて仲良しの友達がたくさんできた。

家族や友達家族ともなれない英語でも意見の
交換をたくさんした。英語は心で話すもの。
話して聞いて学ぶもの。

あなたは意見をはっきり持っている人だから話しやすい。

そう言ってくれる友達も増えていた。
サンバーンは痛いすぎる経験だったが、
どれだけ苦しい時でもあきめらなければ
一人でもやれる。

あの日・・

帰らないと決めた。
最後までやり切ると決めた。
何ごとも「YES」で通すと決めた。
そして決めたことを達成できていた。

一人で初めての海外生活。
大やけどをおっても諦めなかったのは
「好き」を信じていたから。
そして英語は人生の扉を大きく開いてくれた。

あの時の選択は間違っていなかった。
海外の人たちと仕事をする機会でも
物怖じせずに話し意見を交換し接することができた。

あの経験が英語は上手さより伝えようとする心だと
教えてくれたから。

あの選択すべてが30年以上たった今でも
辛くなったとき、勇気を与えてくれる。

やってやれないことはなし!
やって失敗してもムダはなし!
「好き」を信じることは間違いなし!

あの時の決心とそれをやり通したことが
自信に繋がっているから。
この先も自分の正直に「好き」を追い続けたいと思う。





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