ライターの「個性と透明性」のあいだ

依頼された原稿で、ライターの個性を出すか? 出さないか? 

ときどき迷うときはないだろうか。自分らしい記事、作品と言えるような記事を書きたいと思うときがある。

ライターの仕事には「下調べ・取材・執筆・推敲」という作業があり、その一つずつに知識や技術が必要になってくる。言ってみれば職人のような仕事なのだから、文章に向き合ったなかで、「書いた証」を残したいと思うのは当然のことかもしれない。

ただ、結論から言うと、ライターは個性を出さないのが望ましいと思う。

主役はライターではない。主役は取材対象である人やモノ、出来事の方なのだ。ライターは黒子であり、透明でなければならない。もちろん、体験レポートみたいな感想を主軸にしたものなら、多少はライターの色を出してもよいだろうが、出しすぎると「なんかウザイ」感じになってしまう。

例えば、取材相手に対して馴れ馴れしい口調だったり、「なんでも知っています風」だったり……。読んでいると、まるで初対面の人にいきなり顔を近づけられたような印象を受ける。感じ方は人それぞれだと思うけれど、わたしはちょっと苦手である。

これからライターとして働き続けたいなら、取材力や文章力だけでなく、ライターの個性のあり方について考えなければならない。今日は、ライターの「個性と透明性」について、考えていきたい。

空想の物語を書いてみる

もし好きなように書いたいたら、この記事はどうなっただろう?
好きに書いたら、誰かに笑われないかな?

そんなことを考えているときは、自信がないときだ。いままで信じてきた「正しさ」がグラグラしているような。こういうとき、わたしはこのnoteで好きなように書くようにしている。

ひとつは、2000文字程度で書く短い物語「ショートショート」。これは、noteが販売している「ショートショートnote」というカードゲームを使っている。クスッと笑える単語が書かれたカードの中から2枚を引き、その単語を組み合わせて連想する物語をつくるのだ。

このカードゲームを監修したのは、人気ショートショート作家の田丸雅智さん、おもちゃクリエーターの高橋晋平さんだ。おふたりのイベントに参加して、このカードゲームを購入した。

空想の物語は、なんでもアリ。カメが空飛んだっていいし、月にうさぎがいたっていい。細かいルールを決めず、好きなように書いてオチまで書くと、自分らしさが自然と出てくるのだ。「こうじゃなきゃいけない」っていう固定観念が外れると、自分の個性の輪郭が見えてくるような気がした。

田丸さんと高橋さんのカードゲーム実録!

言いたいことをひとつに絞ったエッセイ

もうひとつは、去年から続けている「1000文字エッセイ」。当初は、言いたいことが散漫になりやすい癖を直すために始めた。しかし、いまは一番伝えたい気持ちを書くことが主軸になっている。

例えば、わたしが「妹への愛を書きたい!」と思ってできたこちらのエッセイ。

心を動かされたエピソードだけを書くようにしたことで、自分の好きなこと、嫌いなものがわかるようになった。

個性と透明性のあいだ

ある編集者さんに、「池田さんは、やさしくて柔らかい文章ですね」と言っていただいたことがある。

別のメディアからは、「過去に執筆された文章を見て、前向きな感じが弊社と合っている気がして」とお声をいただくこともあった。

やさしい。柔らかい。前向き……。そう思っていただけたなら、うれしい。けれど、そう見せようとはしていない。むしろ自分は透明になったつもりで、取材相手の人となりがまっすぐ届くように書くことを心がけていた。

いったいなぜ、個性と認識されるのだろう……?

考えた末、個性は”出す”ものではなく、”出る”ものなんだな、と当たり前の結論に至った。何度か耳にしてきたフレーズが、ストンと落ちてきたような感じがした。取材相手と本気で向き合うことで、「わたしらしさ」が出ていたのかもしれない。

ライターの仕事はさまざまだ。エッセイスト、コラムニスト、小説家、ノンフィクション作家、放送作家など、そこからまた枝分かれしていく。それほど書く仕事は多岐にわたる。

「わたしにできることは、これだけ」と思っていても、もっと活躍できる分野があるかもしれない。それを探す努力は続けるべきだと思う。

ライターは、「個性と透明性」の間を行き来しながら、自分らしさを深めていくのがいい。ただでさえ、正しいと思っていたことがひっくり返る世の中だ。決め打ちしすぎず、ときに正しく、ときに自由にと。

(記:池田アユリ)





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