見出し画像

 人の価値観は中高時代に大体決まってしまうのだとか。就職活動を始めるようになってから、『価値観』という言葉をうんざりするほど耳にしてきた。そこで私がどのような価値観を持っているか、自己分析などを通して知ろうとしてきた。

 そんなことをしなくても常に自分自身について考察してきた私だ、そんな表面上のことなんて必要がない。自分のことをこんな診断テストの一つや二つで何が分かるというのだろうと高を括っていた。
 自分の価値観など、常に変わっていく。環境が変化し、誰かと会い、調べて学んでいく度にそれが変わっていくだろう。一秒前の自分だって、私と同一人物とは限らないのだ。性格診断なんて、昨日「とてもあてはまる」と答えた項目に対し、今日は「まったくあてはまらない」と答えることなんてざらだろう。

 だが最近になって、『価値観』というのは、もっと根底の部分にあると気づいた。

 お菓子に例えよう。ずっとたけのこの里を食べていたが、ある日突然きのこの山に目覚めた人がいるとする。そのきっかけは、意中の相手がきのこ派であったからとか、きのこの方が手が汚れないことに気づいたとか様々あるだろう。
 そしてしばらくきのこの山ばかりを食べることになったが、どうにも、やはり昔からずっと食べてきたたけのこの方が自分の舌に合っている気がする——自分の根底で、自分の性に合っているのがたけのこだったということだ。

 これが価値観なのかもしれない。自分の価値観ではたけのこ派だったのだ。

 様々な価値観を知り、影響されたり、理解したりすることで、一度直前の自分とは真逆の立場に転ずることがあるが、これはあくまで一時的なものであることが殆どなのかもしれない。

 私のように成人してしまえば学ぶことは沢山あっても、一瞬の憧れがあるだけで、自分自身がそうなろうとしても私の中の根底が許さず、価値観が覆されることはなくなる。
 思春期はよく『多感な時期』と言われるが、それは様々な価値観を知ることで、自分のアイデンティティ=根底が確立される途上にあるのだと気づいた。

 私は話を書きたいと思い、曲作りへの憧れもあって、クリエイターへの仕事をしてみたいと思った。一度それに関するインターンにも先日飛び込んでみたが、これを生活の中心にしていくのかと考えたときに胸の奥で違和感を覚えた。

 中高時は、クリエイトすることは殆どなく、進学校で赤点を取らないように必死に定期試験の勉強をし、それが終われば部活に没頭した。帰ってくればピアノを弾いた。自分の青年期がクリエイト系とは真逆の活動をしていて、大学に入ってもそれらに手を出すことができなかった。私の根底は21歳後半になって、かなりしぶとく根を張ってしまっていた。

 自分の価値観によって置かれた状況に甘んじることができれば、こんなに就職活動も苦労することはなかったのだろう。価値観にそぐわない挑戦は、新たな学びがあるというメリットがありつつも、私の根底が生み出す抵抗とも闘っていく必要があり骨の折れることでもある。

 私の大学生活は、根底を覆しかねない多くの出会いとともにあった。中高時代の価値観のまま、期末試験前だけ勉強し、部活に没頭する生活だったが、あまりに憧れを多く持ちすぎた。今までの根底を覆し、憧れを私の根底そのものにしていくことができるかが、私の今後1年間の課題だ。

 根底を変えられたら、すごいことではないか?

  

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?