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せんろはつづくよ

子どもが電車をすきだ。とくに誰も促さないのに、1歳の途中からすきになった。

いま彼は2歳半で、電車ブームのピークはどうやら過ぎた。興味の対象が増えたために、電車まわりのことは大好きな趣味のうちのひとつという位置づけになってきたように思う。電車を見るとクールにその系統名を呼んだりしている。

しかし1歳半から満2歳にかけての彼はそんなものではなく、寝ても「がたんごとん」覚めても「がたんごとん」ときどき「かんかんかん」、口を開けば「がたんごとん いく」。クールさなどかけらもない。電車一辺倒であった。

「がたんごとん いく」のひと声にかり出され、踏切の前によく出かけた。そしていつもそこから動けなくなった。
ぼちぼちいいかな、とこちらの判断でその場を去ろうとすれば、だっこ紐のときは抱っこ紐、ベビーカーのときはベビーカーのベルトを引きちぎらんばかり、身をよじって最大音量で泣き叫ぶのだった。
それで付き添いのわたしか夫は、真剣そのものの顔で十何本もの電車を見つめる子ども(にこりともしない)の横に30分も1時間も突っ立っていることになった。夏でも冬でも。
夏の日には髪の毛の先から汗をしたたらせながら電車に合わせて揺れ、「がたんっごとん、がたんっごとん、」低い声でつぶやく子ども。
冬の日にはふみきりの遮断棒のまねをする両の手がこおりのように冷え切っているのにまるで気に留めない。
うわのそらの彼に水分補給をうながしたり(口もとに水をもっていくと電車から目を離さないまま飲む)、手袋に手をねじ込んでやったりした(電車が通過している間にやるとうまくいく)。

ベビーカーから身を乗りだして電車を待つ子ども。あまりの期待で彼の存在自体が光を放っているようだった。光る子どもの横でわたしはいつも立ちつくしていた。彼の見せるしずかな熱狂に圧倒されていた。
うわさには聞いていたけど、これが「男児気づけばなぜか電車にはまっている現象」か……などと白目をむきながら感心していたら、ある日わたしの父と母がこう言った。さもありなんという顔で、

「アカリもすきだったもんね」

初耳である。
ふたりによれば、走行する電車を見るのも列車のおもちゃで遊ぶのも、幼少期のわたしのライフワークだったという。当時私が使っていた列車のおもちゃが証拠として提出された。記憶にないアイテムだが、いかにも子どもによって執拗に酷使された玩具のおもむきがある。謎のシールとか貼ってある。
わたしの母は断捨離ということばの台頭よりずっと前から筋金入りのダンシャリストだ。すべて捨てないと先に進めない、みたいな女性だ。その母からもこの木の列車とレゴブロックだけは目こぼしをうけたらしい。幼き日のわたしがよほど気に入って遊んでいたせいだろう。

その後、夫についても、
「電車に夢中だった。よく入場券を買ってホームから特急電車を見せていた」
との証言が夫の両親から寄せられた。そのころの記憶はきれいさっぱりなかったようで、聞かされてずいぶん驚いていた。

子どもが電車を好む傾向は男児とか女児とかあまり関係なく、なんのことはない、「子どもは動く大きなものがすき」というだけなのかもしれない。とくに都市部で育ったら(わたしも夫も都市郊外育ちだ)自然と電車が目につくから、子どもたちの多くが電車愛好家に仕上がるのは必然、なのかも。

電車とねんごろなわたしの子どもを見るにつけ、わたしにもこんなふうに電車に目を輝かせていた時代があったのかと不思議に思った。彼が興奮しているとき特有の裏がえった声でその名をよぶ山手線(あまのてせん)、京浜東北線(けひんとこせん)は、仕事に行く日のわたしををたびたびひどく苦しめてきたあの満員電車と同じ電車だろうか。時にいまいましいとまで思う電車、あれらを友だちのように、味方のように感じていた時代がわたしにもあったのか?



育った町には赤い電車が走っていた。

子どものときにはこの赤い電車を走らせている私鉄が鉄道のすべてと思っていて、JRのことは知りもしなかった。JRにも乗ったことはあったし、JRの電車は赤くなかったのに。
わたしはぼーっと生きていた。世の中の成り立ちを周囲2メートルのみで見ていた。
母に連れられて遠くに出かけるとき、乗り換えだとか急行だとか各停だとか、どこそこでまた切符を買うとか、母が指示するあれこれがいったい何のことで何のためなのかまったくわからずにいた。はぐれないよう母にぴったりついていることしかできなかった(それでもときどきはぐれた。すぐにぼーっとする)。
その様子からすると乗り鉄ではなかったんだね。

赤い電車の町にずっといた。
幼児期からそこにいて、少女のときもいて、成人してからもちょっといた。その町にいるあいだわたしはずっとぼーっと生きていた。ときどきうそみたいにシャキッとすることがあるにはあったのだけれど、まあ基本、ぼーっとしていた。
そういう人間にやさしい電車ではなかった、赤い電車は。

赤い電車、停車駅ですぐにドアを締める。「締めます」と言って締める。
「締まります」より主体性があるように思えて好感がもてる。つよい意思を感じる。
いや、もしかして単に「締まります」より「締めます」のほうが早く言い終わるから? それならそれでやっぱり意思を感じる。
すぐ発車したい、してやる、という気迫にあふれた赤い電車から、わたしはしょっちゅう降りそこなった。人生NG集を作ったら赤い電車から降りられないわたしが30カットは入ると思う。怖いな、人生NG集。

何かとせっかちな印象のある私鉄で、トロいわたしとはたぶん相性がよくなかった。でも電車といえばその電車しかほとんど認識していなかったから相性の悪さに思いいたることもなく、ただ電車というのはそういうものだからと、すごい速度で運ばれたり置いていかれたり降ろしてもらえなかったりしながらも不満も抱かず付きあっていた。もはやひとりで電車に乗れるようになっていた(?)そんな時代、わたしは鉄道にたいしてとくに前向きな気持ちも後ろ向きな気持ちも持っていなかったと思う。

子どものころ両親が借りていたアパートは、線路は近くて駅は遠い、ちょっと残念な立地にあった。近くの線路を快特や急行の列車が走行するたび部屋の窓はわずかに揺れた。ピリピリと。走行音も聞こえた。幼年期からの環境であるから、その揺れや音に不満をもつことはなかった。むしろ他所の家に泊まるときなど、列車による振動のないことに落ち着かない心もちがしたくらいだから、その震えや音のことはごく自然に愛していたのだと思う。14歳で別の家に越すまで、電車がもたらす定期的な揺れと駆動音はわたしの生活の一部であった。

電車とわたしとの接点は少なかった。小中高と、歩きか自転車で通学できる学校に行っていたから、日常的に交通機関を利用することはなかった。遊びに行くときたまに電車に乗って、そのたび降りそこなって、あとは家をピリピリ揺らされて。その程度の付き合いだった。だから電車との思い出深いエピソードとかはない。ぼーっと生きていたうしろにいつも赤い電車ががたごと走っていたなあ、いま思えば。くらいだ。

でも思い出深いというのではなく、思い出すと胸がひりひり痛む電車の記憶の一群がある。家出のこと。

10歳くらいから、両親との折り合いがひどく悪くなった。その折り合いの悪さについてはわたしもただぼーっとしているだけではいられなかったみたいだ。
両親の、とりわけ母の強い物言いで、つねに上から押さえつけられているように感じていた。わたしはひとりっ子だから、両親の批判的な4つの目はわたしひとりを包囲した。鬱屈とした思いは逃げ場のない狭い家の中でいつも行き場を失い、小爆発を繰り返し、そのたびに関係はさらに悪化した。負の連鎖だ。

家出のきっかけは「出ていけ」とドアの外に突き出されて締め出しをくらったことだったり、言い争いの最中にたまらなくなってわたしから飛び出していくことも多かった。時刻はたいてい夜だった。夜、10歳そこそこの子どもに行き場所などあるはずもない。両親はわたしがうなだれてすぐ帰り、入れてくれ、許してくれと懇願するのを望んでいるのだとわかった。わかったら意地でも帰りたくなかった。朝まで外で過ごすのは無理だとしても、帰るまでの時間をできる限り伸ばしたかった。それがわたしにできる精いっぱいの抵抗と信じた。
近所で過ごすのは限界があった。都市部ではないから夜は暗く恐ろしく、公園のベンチは硬く、凍える手を温めることができなくて、すぐ帰るはめになった。悔しかった。
それで12歳ごろから家出には電車を使うことにした。130円、初乗りのきっぷを買って電車に乗る。できるだけ遠くまで行く各駅停車がいい。終点まで行ったら改札を出ずにそのまま、引き返す電車に乗って帰ってくる。場合によってはそれを何度か繰り返す。最後はきっぷを買った駅のとなり駅で降りる。これでずいぶん時間を過ごせることがわかったのだ。寒い思いや怖い思いをすることもない。だからわたしはかき集めた小銭が130円になるたびに、この方法で家から逃避した。

いつも下りの電車に乗っていた。1時間強、電車に揺られて終点に着く。終点は海に近いはずの駅で、わたしはホームを歩き回って景色の中に海を探す。夜だからなにも見えない。潮騒が聴こえる気がしてもあまりにも微かで、きっと気のせいだった。
向かいのホームに出るために階段を降りる。そのとき改札の前を通る。この改札を出られたらどんなにいいだろう。
きっぷはとなりの駅までだから帰らなくてはならない。引き返す電車に乗る。窓の外の黒い景色の前に映るわたしの顔。目はまだ赤い。そこには、行きの電車に乗っていたときのようには憤怒は燃えていない。ただ燃えかすのように、静かな虚しさだけが残っていた。

遠くまで行けるけど、どこにも行けない。

また1時間と少しかけてもとの町まで運ばれる。わたしはきっぷを買ったいつもの駅をひとつ通り過ぎ、となりの駅で下車して、改札を出る。そこからできるだけのろのろ歩いて家に帰る。

これで4、5時間くらいの家出コースだ。季節がよければ歩く時間を増やして、明け方まで過ごすこともできた。
だが深夜1時に帰ろうが朝の5時に帰ろうが、父と母はいつでもすやすや眠っていたから、家出の時間を引き伸ばすことにたいして意味はなかったのかもしれない。わたしの尊厳をかけた抵抗は、かれら権威にはまったく響いていなかった。徒労感からたびたび泣いた。でも歩き疲れて脚が棒のようになっているおかげで眠ることはすぐにできた。

電車を使ったその小さな家出(いま思えば不正利用だ。ごめんなさい)はわたしにとって、いつもみじめなものだった。毎回、自分の力ではどこへも行けないのだと、結局はあの家に戻るしかないのだと、自らの無力を自らに突きつけるようなショートトリップだった。自傷的であった。
と同時に、微かな希望を感じることもあった。いつか、目的地までのきっぷを買えるようになったら。母の気分次第で渡されたり渡されなかったりする小遣いに頼るのではなく、いつか自分でお金を稼ぐことができるようになったら。そのとき、わたしはあの改札を出ていくことができるし、遠い潮騒のみなもとを確かめに歩いていくこともできる。浜の上にひとりで立ち、夜の海がどんなか、この目で見ることができるのだ。
しかし希望はあまりにも微かで、また無力感はあまりにも圧倒的だったので、そのような日がわたしに訪れるとは、ほとんどまったく信じていなかった。
それでも、どこにも行けない電車に揺られる哀しい旅が、わたしの自尊心をぎりぎりのところで救ってくれていたのだと思う。束の間でも、自分の身を自分でどうにかできること。その権利をわたしが有していること。そしていつかその気になれば……今はむりでも、わたしはどこへだって行けるんだ。ほんとうは。

実際にどこへだって行けるようになっていたことに気がついたのは、実際にどこへだって行けるようになってしばらくあとのことだった。無力感が根深く、自由を認識するのに時間がかかってしまったようだ。あとやはりぼーっとしていたから。
気がついたら世界はあまりに開けていて、思い立ったら電車に飛び乗って路線図のどこへでも行けるだなんて、めまいがした。
おそるおそる確かめるように近場の関東、東海を電車で旅して、慣れたころにひとりで関西をたずねた。やはり鉄道で。おおむねそれで満足してしまった。実際にどこか遠くへ行くことよりも、『その気になればいつでも、どんな遠くにでも行くことができる』と思えることが大事だったみたいだ。それは果たされ、確かなことだとわかった。いつでもそうできるなら安心して生きてよさそうだと思った。

現在のわたしは、ここ15年くらいで積もったしんどい通学・通勤の記憶から、東京近郊の電車を「うへぇ」という気持ちで見てしまうのだけれど、その気分は電車全体には及んでいない。それどころか、鉄道にまつわること全般にたいしてぼんやりとした好意を持っている。子どもと出かけた先の公園に廃車となった機関車が開放されていたりすると素直に興奮する。フィルムカメラが趣味だったころに撮った写真をみると線路や列車がよく登場している。その漠然とした好意のみなもとがわかった気がする。上のような経緯があり、電車はわたしにとって、手に入れたささやかな自由の象徴となっていたらしい。うっすらと。



子どもが歌をうたう。2歳半の彼の多彩な趣味のうちのひとつは歌うことだ。文字はまだ読まないから完全に耳だけで、よく歌詞をおぼえる。

せんろはつづくよ どこまでも 
のをこえ やまこえ たにこえて
はるかなまちまで ぼくたちの
たのしいたびのゆめ つないでる

現在の十八番は「線路はつづくよどこまでも」で、1日に1回は通してうたう。趣味と趣味の融合である。すばらしい。

せんろはうたうよ いつまでも
れっしゃのひびきを おいかけて
リズムにあわせて ぼくたちも
たのしいたびのうた うたおうよ

いい歌だなと思う。子どもがうたうことによって、ずっと知っていたはずの歌があたらしい色を帯びて迫ってくる。わたしはすでに「かえるの合唱」「きらきら星」もいい歌だなと思っている。これからそういう歌がますます増えていくのだと思うと感情のキャパシティがちょっと心配だ。
子どもといっしょになってわたしもうたう。

ランラランラ ラーンラ
ランラランラ ラーンラ
ランラランラ ランラン
ラン ラン ラン ……




わたしの電車。子どもの電車。当然、それぞれはまったく別のものだ。
2歳の子どもはいま最高の趣味のひとつである電車に、これからの人生でどんな記憶を積もらせていくのか。いかないのか。わたしにはきっと知るよしもない。

でも線路はどこまでも続くから、彼がこころよく同伴してくれる幼い子どものうちに、たくさん電車の旅に付き合ってもらいたいと思う。気軽に行こう。きみは詳しいからもう知っていると思うけど、電車に乗ると線路のかぎりどこまでも自由に行くことができるんだ。野を越え山越え谷越えて、はるかな町までだって。わたしはね、それ、けっこうな歳になるまで知らなかったよ。


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