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子猿のゆううつ、楽園の出口(1)


 わたしの通っていた小さな幼稚園には小さな園庭があった。たいして多くもない園児たちを集合させることもできないほどだったから、園庭というより個人宅の庭くらいの趣だった。それもそのはずで、その小規模な幼稚園は実際、園長一家の自宅の1階部分だった。

 2階の住居スペースと1階の幼稚園とは、外階段ではなく普通に屋内の階段でつながっていたから、屋内遊びをしているときなどに園長の娘たちが降りてくることがあって、そのたびに驚かされた。彼女たちは小学校に通っていたが、園の開いている平日昼間も時々は家にいることがあった。小学3年生と4年生といえば園児から見るとかなりお姉さんだったし、そのお姉さんたちはいつも自分たちの家の下でわいわいやかましくしているわたしら園児に苛立っているように見えたから、彼女たちがいつ降りてくるかわからない階段下の広間ではいつもびくびく過ごしていた。ちょっと変わった環境の幼稚園だったのだ。

 園庭の褐色の土はむき出しで、雑草が好き勝手にはびこる以外には花が植えられることもなく、そのかわりに無骨なイナバ物置があった。百人乗っても大丈夫である。あまりかわいらしい園庭とはいえないが、山男そのものの風貌をした園長の趣味は、その見た目通り、園児らしいかわいらしさからはつねにあさっての方角を向いていた。その趣向は園児らも保護者らもすっかり承知していたから、文句を言う者はいなかった。
 保護者たちはそもそも、園長のワイルド志向にある程度賛同しているのでなければ子どもたちをわざわざこの園に放り込んだりしなかったろうし(間違えて子どもを入れてしまうことはなかったと思う。園舎の外にある、大型動物のどてっぱらがあいて通れるようになっているデザインの門は、園長自らベニヤ板で手作りしたものだった。いなかにある個人経営の牧場の入り口みたいだった。ひと目みれば園の『調子』がわかったはずだ)、子どもたちも日々、園長が出す破天荒な指示を受けて活動していたから、それが普通になっていた。
 そういう活動の例を少しだけ挙げると、年中・年長クラスの合宿は県内一の標高を誇る山を登り、山小屋に一泊するものだった。そしてあるときの遠足は浜を30キロ歩き続けるものだった。記録を見たので確かなのだが、未就学児が1日に30キロ、信じがたい。でも普段から15キロくらいは平気で歩かされていたようだから、当の園児たちには驚くような行事ではなかったのかもしれない。

 園児のなかには、このように他の園とは(たぶん)趣を異にする園のありかたに一種の誇らしさを感じるようになる者も多かったと思う。わたしもそのクチで、卒園してからもよくうっとりと園の様子を思い出していた。幼稚園はその後通うことになったどんな集団生活の場よりもわたしの所属意識を刺激した。小学校に上がると、その一風変わった園の卒業者であることに一種のエリート意識すら抱くようになる。伝統があるとか、名門大学の付属であるとか、そんなことは一切ない、ただ野性味あふれる小さな幼稚園の出身であることで。ここにわたしのなんかちょっとへんなヤツとしてのキャリアのはじまりが見てとれるような気がする。余談です。

 園庭の水はけの悪い土はどこもかしこもでこぼこしていて、少しの雨でも見事な水たまりができた。わたしたちはそこで思う存分泥遊びをすることができた。
 あるとき園長は水はけの悪さを逆手に取ることを思いついて(?)、園庭に巨大な穴を掘りはじめた。数日かけて穴がよい大きさになると、底に巨大なブルーシートを敷いて、「プールができたぞ」と言った。ちょっとよくわからなかった。
 作業は更に続いた。掘り出された大量の土は穴の脇の片一方に高く積み上げられ、そのてっぺんから穴の底まではなめらかにならされて、そこそこ急な坂になっていた。山のてっぺんには蛇口とつながるホースが設置され、そこから穴に向かって水をジャバジャバ注ぐと、たしかにプールが完成していた。この段になると、怪訝な顔つきで作業を見ていた(またはよくわからずに手伝わされていた)子どもたちの間にも、興奮が広がった。

 出来上がったそれは大人なら2人入ればぎちぎちの、肩まで浸かることもできない小さな露天風呂というようなサイズ感だったと思う。でも5歳そこそこの子どもたちにはじゅうぶんな大きさと深さがあった。公共のプールの基準からいえばむしろ深すぎる部分もあったかもしれない。一度に5、6人がチャプチャプ遊ぶことができた。みんな泥遊びとこのプールとを平気で行ったり来たりするので、水はすぐにうす茶色く濁った。陽に灼けた顔に泥をつけた子どもたちがゴロゴロと、ブルーシートで覆われたまあるい穴の中で水に浸かっている様子は、さぞかし芋洗いらしかったことだろう。

 平和にチャプチャプやるだけでも楽しいこのプール(穴)、醍醐味は別のところにあった。プールサイドの土山のてっぺんに据えられた例のホースから水を豪快に出し、その水流を尻に受けながら坂を水面に向かって滑り下りる遊びが推奨された。ウォータースライダーである。園児たちは歓喜した。列をなして土の山に登っては、水とともにつぎつぎ勢いよく滑り落ちて、ドバシャァと泥混じりの水しぶきをあげながらけたたましい笑い声をあげた。なかなかスリルのあるアトラクションだったと記憶している。水を受けたブルーシートはつるつる滑り、園児の尻はあっという間に水面に叩きつけられた。いちいち頭までずぶ濡れになったし、先に滑り下りた子が逃げ遅れているとその子の顔ももう一度ずぶ濡れにした。その3秒たらずのアトラクションはわたしたちを魅了してやまず、もう一回もう一回と、時間の限り何度でも求めた。この遊びを推奨した張本人である園長は、こんがりと灼けた顔にニヤニヤと笑みを浮かべていかにも得意げであった。
 園長はわたしたち子どもにとって、時に無茶な課題を与えてくる権威的存在であったけれど、一方ではこのときのように、自分ら子どもよりずっと子どもだった。それはわたしたちをとても強く惹きつけた。おそらくは大人である保護者たちをも。チャーミングな山男だったのだ。
 そんなわけで、夏の時期の園庭にはきゃあきゃあ高い声と水のはじける音が絶えなかった。

 夏の時期と書いてからあれ? と思った。なんだか、冬でも構わずあのプール(穴)は開放されていたような。園長はよく真冬の縁側で上半身裸になって勢いのある乾布摩擦をして、見ていた男児たちにもそれを勧めるような人だったから、冬季の水遊び、普通にあり得る。


 わたしたち園児が暑い時期に、またもしかしたら外気温がふた桁に届かない冬季にも、園庭で激しく水と戯れていたとき。そのときの正装についての話をしたい。それは全裸であった。水着はおろか、パンツ一丁ですらない。肌に何も着けないのが正しいとされた。男児女児関係なく。わたしたちは尻や股を太陽のもとに、また周囲の住民にも晒しながら(園庭には目隠しなんて当然なかったし周りは普通に家だった)、滑り台を水で滑り降り、水と泥の間を駆け回った。

 わたしが幼児期を過ごした1990年代初頭、子どもの裸の扱いは全体的にそのようなものだったのかもしれない。それともやはり、わたしの幼稚園の方針が変わっていたのかもしれない。どちらだかわからない。他の園のプールの時間というのがどのようなものだったのか、全く知らない(園長が掘った穴がプールでなかったことくらいは想像はつくが)。わたしの通っていた園でははっきりとそれが常識とされていたことを知っているだけだ。

 わたしは裸になることを躊躇しなかった。他の園児たちもだいたいそうで、みんなプールと聞くや自分からすっぽんぽんになって庭に駆け出していった。人前だからといってショーツを脱ぐのをいやがる園児はほとんどいなかった。でも、ひとりかふたりはいた。そういう子らが無理やりひん剥かれるわけではない。脱ぐのがいやならば水遊びはできないというだけだ。濡れないところで遊べばいい。その選択は子どもに任されていた。ただ、裸になるのがいやだからと子どもがショーツを身に着けたまま水に入ろうとするのは厳格に阻止された。教諭により全部脱がないとプール(穴)に入れないことを諭され泣いていた女の子を、水の中から眺めていた記憶がある。こうなるとその子は、ウォータースライダーやりたさにしぶしぶ脱ぐか、水遊び自体を諦めるか、どちらかを選ばなくてはならなかった。そのときの子は確か脱ぐほうを選んだのではなかったかな。長くごねていたせいで園庭遊びの時間も残りわずかとなったころに、赤い鼻で、憮然として、裸で、こちらに歩いてきて。

 「気にしない」園児のわたしがそういう「気にする」子をどう眺めていたかというと、かなり白い目で見ていた。あーあ、あんなことでごねちゃって、みっともないの。裸になるのなんてどうってことないのに。そのときのわたしは「自意識過剰」という言葉を知らなかったが、その子の反応をそう感じたのだと思う。だれもあなたの性器をじろじろ見るわけじゃあないのに、そんなこと気にしちゃって。恥ずかしいの。当時のわたしの肌感覚が間違っていなければ、その認識は他の多くの「気にしない」園児の間にも共有されていたように思う。あの園庭においては裸の子どもが多数派であり、強気でいられるのは服を着ていない側だった。ショーツごときの庇護にこだわって泣く同い年の子を内心で、もしくは露骨に、ばかにして笑った。そしてその子らとは違い、堂々と肌を晒して走り回ることのできる自分たちが、誇らしく思えた。4、5歳の子どものこと、まだ意識的にグループが組織されることはなかったけれど、そういう場面場面での排他的な集団意識は存在していたように思う。

 水に入るときは裸で――。園の決めたルールによってわたしが得たのはパンツをはいた子への優越感。それから、恥ずかしがることが恥ずかしいという大人たちからの明確なメッセージもいっしょに受け取った。園の大人たちがわたしたち子どもの裸体を扱うやり方、そしてそれを容認する親たちの姿勢は、それを恥ずかしがる子どもに向かってはっきりとこう発信していた。子どもが裸でいるのを見ておかしな意味で気にかける人なんていると思う? 子どもは裸で走り回っているくらいで丁度いい。何を気にすることがあるっていうんだ? ――5歳だか6歳のわたしはそれにうんうんと頷いた。そうそう、誰も気にしない。恥ずかしがることが恥ずかしいことなんだよね。

 園長をはじめとする大人たちが作り上げたその空気は、わたしに性なき世界を提供してくれていた。子どもたちは男も女もなく裸になって子猿のように跳ねまわり、そのことで「はしたない」「女の子らしくしろ」などと責められることもない。楽園だ。居心地がよかった。園自体が醸し出すそのような世界観が少数の「服を着ていたい」子どもたちにどのような居心地をもたらすのかについては考えもしなかった。わたしはかれらを、くだらないことで大人の手を煩わせるみっともない子たちと軽んじていた。もしかすると、かれらのほうが「目をひらいていた」子どもたちであったかもしれないのだが。



 幼稚園時代が終わり、小学校に上がって半年ほど経ったころ。平日の学校が終わった放課後、OGとして幼稚園に遊びに行ったことがある。幼稚園としての保育時間は終わったあとだったが、保護者の迎えが遅れている園児が数人、園庭で遊んでいた。他の教諭たちはもう帰っていたが、園長がそこにいて「おう!」と言った。また何か庭に改造を加えることでも考えていたのか、その片手は大きなスコップの取っ手に置かれていた。園児のほかに、わたしと同じく卒業生の男の子がひとり遊びに来ていた。みんな園長に構われるでもなくそれぞれ好き勝手に遊んでいた。半年ちょっと前には日常だったそんな様子がなつかしく、ああ、やっぱりここはいいなあと息をついた。小学校はやはり、子猿の楽園とはかなり違っていたから。

 園長はわたしが水遊び、とくに土山でのウォータースライダーを気に入っていたことを覚えていて、わたしがやってきたのを見るとすぐに蛇口をひねってプール(穴)に水を注ぎはじめた。
 残っていた園児らは、いつの間に、とびっくりするくらいの早さで全裸になって穴の底に座り込んでいた。注がれてくる水を身体に受けるのが楽しいようだった。
 続いて卒業生の男の子(わたしの1歳上だったと思う)がちょっと難儀そうなそぶりを見せつつも服を脱いでたたみ、やはりためらいなくパンツをおろして蛇口のついた土山に向かった。
 一拍の間を置いて、じゃあわたしも、とTシャツに手をかけたところで、園長の妻が現れて(この人も教諭のひとりだ)、わたしに「小学生からはパンツをはいて遊んでいいのよ」とアナウンスした。思わず園長の顔を見ると、こちらに向かってひとつうなずくのが見えた。

 わたしは反射的に、そのような特例が用意されたことに対する屈辱感をおぼえた。ここでパンツをはいて遊ぶなんて。現にわたしと同じ小学生の男の子がすべてをさらけ出してそこで遊んでいるのに園長夫妻が何の声もかけないところを見ると、つまりはわたしが女子だから提案された特例なのだろう。とても悔しい気がした。かといって、その提案を蹴り、しゃらくさい! とショーツを脱ぎ捨てて裸で水の中に駆けていく気にも、もう、どうしてもなれなかった。

 ショーツのはりついた尻で土山の斜面を滑った。あれほど焦がれた幼稚園のウォータースライダー。ちっとも楽しめなかった。自分の姿が気になって。恥ずかしがるのが恥ずかしいことなのに、誰もわたしの裸など気にしないのに、パンツを脱いでしまうことができない自分はつまり、恥ずかしいやつだった。そこにいたほかの子どもたちも、ひとりだけパンツをはいたわたしを可笑しそうに見ていた。園長でさえ少し笑っていた。恥ずかしくて惨めでならないわたしの目にはそう映った。
 園児のころ、あれほど冷めた目で見ていた「パンツをはいている子」に今、わたし自身がなっていた。同じ場所で。

 10分ちょっと遊んだだけでいたたまれなくなって早々に水から上がった。用事があるので、とごにょごにょ言いながら服を着た。ショーツの替えなど持っていないから、素肌に直接ズボンをはいた。濡れたショーツはランドセルに放り込んだ。ずっと恋しかった幼稚園を、逃げるようにあとにした。

 歩きはじめると股が擦れて痛かった。家までの道のりは遠く、重しのついたような足をのろのろと運んだ。西陽がまだ明るく、なかなか進まないわたしの頬を急かすように差していた。その眩しさをうとましく思いながら、わたしはここ半年ほどの小学校での生活のことを考えていた。全体的に憂鬱な考えであった。


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つづく


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