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ただ ぽかーん とひとつになる。
うちの母とかもそうなのだけど、
「 心配する 」
という愛情表現しか知らなかったり、
それでしか表現できない人って結構多いのかもしれない。
大好きすぎて、大切すぎて、心配しちゃう
そんな具合。
自分が不安な思いを抱えていると
余計に「心配」という愛情表現をしがちで
もちろん悪気はない。そこには純粋な想いもある。
誰かの心配をしたい人は
どっちかっていうと「必要とされたい」
求められたい・役に立ちたい・寂しさ
それゆえに「誰かを心配したい」というところがある。
あとはコントロール欲求の延長線としての心配。
自分の思い通りに、自分がどーにかできる範囲内に
把握できる範疇に収めておきたい。
ゆえに重い。
心配は相手の負荷・負担になってしまうこともある。
そして、心配されたい人、心配されて嬉しい人もいる。需要と供給のマッチング。心配したいニーズと心配されたいニーズがあわさると共依存関係、それはそれでいいとおもう。
心配ってとても重いエネルギーなのだけども、それぐらいの「ずっしり感」がないと物足りないというか、実感がわかない人もいる。重さ=心地良い。
それは、次の日に揉みかえしがくるぐらい強く強くマッサージしてもらわないと物足りない人がいるのと似ていて、実際、そうしてほしい人のそれは「寂しさ」から来ているって聞いたことがある。
愛情 と 愛 はちがう
(ぜんぶひとつでもあるのだけれど。)
心配の代わりに信頼(大丈夫)っていう気持ちをおくってあげる。そんな愛情のバリエーション、示し方や伝え方もある。
せめて具体的になにか相談されるまでは心配しなくてもいいし、その代わりに「祈る=純粋に想う」でもいいんじゃないかな。
そして、心配したい気持ちがあるならば、
それは単に「自分の不安」であることに気づいて、
それに手を合わせてみる。
心配された側としては、そんな「心配という不安」に巻き込まれるんじゃなくって「ありがとう」と受け取って、まるごと手放してあげる。そんなイメージ。
祈るは「心配する」じゃないんだけど、
心配=祈るになっている場合もあったりで、
人によっての「祈り」があるとおもうのだけど
わたしのイメージはただ ぽかーん とすること。
ただ ぽかーん となってひとつになる。
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