「レザボア・ドッグス」の無駄の中にあるもの
無名だったタランティーノのデビュー作「レザボア・ドッグス」
この映画の冒頭に、作品とあまり関係がない長回しの雑談がある。
マドンナの『Like A Virgin』の解釈についての議論とか、会話の内容は少しばかり下品でここには書けない。
ぐるりと回るカメラに次々と写しだされる個性派の俳優陣は、好き勝手に喋り続ける。
このシーンがなんだかすごく好きで、繰り返し観てしまう。
ここで仲間内の呼び名が「色」で決められていることや、それぞれの性格や関係性が分かる。それは至って自然で日常的だ。
毎日通ってたダイナーでモーニングを食べていたら、
隣の席から聞こえてきた会話、みたいな。
ただこれだけ粗暴そうな男達が集まると、ちょっとビビるかもしれない。
ついにチップを出さないとかなんとかで、仲間の言い争いが始まった。
「絡まれたら厄介だな」と、薄くてまずいコーヒーをすすってそそくさと店を出る。
あいつらがまさか強盗を企てているとは…
という感じで、自分がすっぽり「そこ」に入り込んだような気分にさせる。
そっか、これがタランティーノマジックなのか。
このシーンはテスト撮影の際、有名フィルムメーカーの講師から軌道修正するよう言われたらしい。
「レザボア・ドッグス」はタランティーノが当初、3万ドルで撮ってやる!と映画会社に売りに出さず、誰にも指図されずに作りたい作品だった。(最終的に軌跡が起きて製作資金は150万ドルまで跳ね上がった)
この件に関してはあのテリー・ギリアムから「自分を信じろ」と後押しされたといわれている。
それであの冗長であり、スタイリッシュでユーモラスなシーンが出来上がったうえに、タランティーノの代名詞的な撮影方法になったのだ。
テリー・ギリアム先生ありがとう。
このダイナーのシーンは、伏線でも、たぶん何かの比喩でもなく本当に無駄なのだ。
出てきたセリフが後から効いてくるぜ、とかない。
この後非道な強盗や誘拐をしたりするわけだけど、なぜだかキャラクターたちを憎めない。一人の中にある正義や、善人や悪人がまぜこぜになっていて、おもしろい人間味がある。
そうだ、彼らは私達と同じ人間だった。
「教科書的には」とか「ウケる傾向にある」とか「あなたの為です」とか、親切にアプローチされたものはアクセスしやすいし、届くまで速い。
なんにも意味を考えなくていい。
私は時折、SNSのアルゴリズムで表示される広告じゃなくて斜め上をいく刺激や、だだっ広い余白を求めている。
昨日の自分が思いもつかなかった思想を巡らせてみたいなぁって。
映画ファンからあえて「無駄」という名称で、愛情を持って呼ばれるタランティーノの意味の無いシーン。
その中には、まだまだたくさんの物が落ちていそうだ。
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