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モロゾフのプリンの瓶

「モロゾフのプリンの瓶を見ると子供時代の記憶が鮮明に蘇ってきてつらい」と、言う人に会った。
「え?モロゾフのプリン凄く美味しくて大好きだし、あの少しほろ苦いカラメルソース美味しいですよね?」と、言ったら「味じゃなくて、あの瓶を見るのがつらい」とのこと。

もの凄く、共感しづらかったので何故かと聞いてみたら
彼の母親は「モロゾフのプリンの瓶」をいつも捨てず、大切に取っておき、二次利用していた。一つは洗濯機の上の棚に置き、カラフルな輪ゴムが「モロゾフのプリンの瓶」に沢山留められていて、もう一つは食器棚の隅に「モロゾフのプリンの瓶」の中に小さな安っぽい色の造花が入れられて飾ってあった。昔、彼の家はとても貧乏だった。両親がモロゾフのプリンを買ってきてくれる事は一度も無く、それは当時は上等な頂き物で、特別な時にしか食べられないものだった。そのプリンが無くなった瓶を捨てず大事に、そして何に使うわけでもなく取っておくのは、この使用済みの瓶さえも捨てられない位、自分の家が貧乏だ。と認めているようでとても嫌な気持ちになる。とても貧乏臭い。あのプリンの瓶に輪ゴムを何重も留めておくのも、花を入れて生けるのも嫌だ。だから「モロゾフのプリンの瓶」を見ると辛い。と。

彼は子供時代、モロゾフのプリンをあまり食べる事はなかったけれど、あの瓶のぼてっとした肉厚なガラス、刻印されているロゴの形、モロゾフの紙袋の緑色。どれも鮮明に覚えている。と言っていた。

大人になってから思い返す大体の子供時代の記憶はとてもぼんやりとして、感情の記憶まで思い起こせるものは余り無くなっている。という印象があったのだけれど、彼の「モロゾフのプリンの瓶」の記憶の様に、凄いディテールで記憶に残っているものがあったのは驚いた。子供時代の記憶が、彼の場合、ずっとずっと生き方や考え方にまで浸食していて、多分死ぬまで消えないアイデンティティにまでなっていて、大半の人は何気なく使っているその物にたいして、思いっきり感情や強い意志を込めていて、それが何故そうなったかを聞いていくと、子供時代に誰かから語られたり、教えられたりしたわけではなく、当時は明確に言語化できなかった心のもやもや具合を、その物をみて感じ取っていた日々の生活の感情を、何層にも蓄積していって、一生消えない記憶のディテールとして深く切り込んでいる印象だった。大人になってから、その物をみて、振り返って見てみる。じわじわと湧いてくる記憶の感情。細部まで鮮明に語れる情景。はずいぶん面白くて興味深いなぁ。と思った。私は、どんな物にそういった記憶のディテールを込めているのかなぁ。

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