見出し画像

昨日見た夢を思い出せない 14(中編小説)




フロントに事情を話そうと一度訪れてから、伊笹が戻ってきてそっと扉を開けると、おとわはもうベッドに服のままもぐりこんで寝息を立てている。起こさないように扉を出来るだけ静かに閉めて、足の下でカーペットが沈むのが、雲を足で踏んでいるような気がした。
ここに入った時に抱えていたわだかまり、嫉妬、迷いや疑いが作っていた黒い渦が、今はもう嘘のように消えていた。
立ったままで、しばらく寝顔を眺める。
この子がおれを好きになると言った。
あそこで俺が、いやだめだ、許さないと言えば、その目でまたじいっとこちらを見て、そっか、わかったと背中を向けたんだろう。

二人の人間がお互いに手を取り合って、なにかを始めようとする。そんなまだ一歩手前にいるのに、もう火傷をして痛いのにとまどった。
彼の懐深くには、やけどどころか、大事に大事に血が流れないよう気を付けてずっと抑えてきた傷がある。目立たないように何食わぬ顔で押し隠していた。手を離したらまた血が流れると思っていた。
誰かに期待することなんてとっくにやめていたはずなのに、今日のこの騒動が起きてはじめて、思いがけない最悪の仕打ち、手酷いしっぺ返しに傷付いていたことに気が付いた。
なのにだ。今は薬を塗られて包帯をしてもらった気分になっている。
好きになる。そんな一言にすべてが洗われたように、すっきりと目覚めて朝の空気を肺まで吸い込み、光を浴びたようにすがすがしい。
恥をかかされたことも、親の苦い顔もどこかへ放り出して何もかも許す気になってしまう。そうだよ。結局、単純で馬鹿なんだ。

おとわのひとことに彼の顔に笑顔が浮かんだ後は、じゃあちょっと話をしようかと横並びにベッドの縁に座った。若干距離を置いて手も握らずに、ぽつりぽつりと話をした。
こちらが謝るのも変な気がして、伊笹はそんな風に言ってもらえると嬉しいとか何とか言ったかもしれない。あの見合いの時は本当に忙しかった。自分がいいなと思ってることを、あのヒゲさんと奧さん達は伝えてくれるかと思った。なぜならお見合いだから。そういうものだから。間違いだった。ちゃんと自分の言うべきだった。伝える以上に、どんどん話が進んでしまった時も、本当だったらもう少しゆっくり見守ってくださいとか何とか言うべきだったんだろう。

彼女の顔が少し曇る。
「どうしよう。もう許していただけないんじゃないかな」
「大丈夫。こんなにあれよあれよという間に話をどんどん進めるのがおかしいってことぐらいはわかる親だから」
「どうしてここに来てくれたの?」
だしぬけの質問に、しばし言い淀む。
「それは、あのとき一緒に飲んでた面子がいただろ。あの中の君の知り合いの一人が、お金持ってないみたいだって…だから、困ってるかなと思った」
「私ね怖かった」
聞いているのかいないのか、おとわは空中を見つめていた。
「自分の親を見せるのが怖かった。自分の親のことが恥ずかしいって言うの気持ち、あなたにはきっとわからないと思う」
「そんなことはないよ」
ただの追従ではなく、真剣に言ったのだが、おとわは伊笹の手にふっと手を乗せてきた。彼の左手をひっくり返して観察する。何の気なしの仕草だったが、親しみが籠っていて、ふとふれた肌が暖かかった。彼は今、これまでつっけんどんな態度を取ったすべての人に、ひそかに悪口を言っていたヒゲおじさんにも、本当に酷いことをして心から申し訳なかったという謙虚な気持ちになる。二度と誰か現れることもなく、このまま一生過ぎていくんだろうなと思っていた日々がとてつもなくありがたいものに思えた。

伊笹は聞いた。
「これからどうしたい?」
すると、少し考えて彼女は言う。
「一時間だけ仮眠を取りたい」
伊笹は立ち上がった。
「寝てていいよ。ここは、一人分しか部屋の料金を払ってないから、フロントに話をしてくる」
後ろ姿に追いかけるようにおとわは言う。
「それから、観光地回りたい」
「いいよ」
付け加える。
「一時間と言わず、ゆっくり寝たら。疲れが取れるまで」
「戻ってきてね」
「戻って来るよ」

フロントには誰もいなくて電気も落ちている。ベルを鳴らしてみても声をかけてみてもしんと静まり返った無人のフロントに吸い込まれていくだけで、伊笹はそんなこともあるのかと仕方なくエレベーターに戻った。
廊下を歩きながら、さっき彼女がふとふれた手のひらを見る。
こちらが言葉をひねり出してから彼女が答えるまでに、いつも少し間があった。
考えてみればこれまでも、上司の「奧さん」が引き合わせをしようとしてマシンガンのように言葉を放つと、彼女は少し困ったようにして口をつぐむ。あれこれ言われた内容を少しだけ噛んで含んで考えるようなところがあった。
そんな彼女相手にだと、無口だとか言葉にするのが苦手だとか、彼や周囲が下していた評価がまるでなかったかのようにすらすらと言葉がついて出て来るのだった。

新幹線の中でもホテルで待っている時にも、伊笹がずっと考えていたのは、彼女のことではなくて別れた妻のことだった気がする。
あなたは他人に興味ない。受け入れようともしていない。あなたは本当は優しくなんてない。そんなの本当の優しさじゃない。
叫んだ顔は、見たこともないほど歪んでいた。そんな姿を見ているうちに、心がすうっと冷めていくのを感じた。多分、自分はどこかが冷えた人間なんだと思っていたが違う。相手のせいにしながら自分も働いていた不正、卑怯さに光が当てられるのが怖くて、目も耳も覆っていただけだ。

全部溶けていく。
焼きもちも困る、理想を押し付けられるのも嫌だ、だからといって、よそで浮気も困る、支配下に置けないと嫌だが従順すぎても退屈だ。霜のようにわが身を覆っていた勝手な言い分は水となって大地にしみていった。我が身の残存を汚ならしいものでも見るような目で見てから、今、これを溶かした自分は違う、違うから受け取って欲しい、好きになって欲しい、愛して欲しいと叫んでいる。

どうしたらいい。何が正解なんだろう。
意地を張っていては掴めない。これまで横を向いて知らない顔をしながら羨ましく思っていた何か。偶然によって落ちてきた何かを、全力で受け止めなければと思う。
受け止めたい。重みでつぶれてもかまわない。
そうだ。
信じる信じないじゃない。
裏切られるかもしれないという可能性さえも含めて抱きしめる。人と暮らすというのはそういうことだ。
伊笹はそっと手を伸ばしておとわの指先を握る。
彼女は眠りの中でぴくっと動いて、寝返りをうち、彼の指先に頬を乗せた。



次へ(昨日見た夢を思い出せない 15 完結)

目次


児童書を保護施設や恵まれない子供たちの手の届く場所に置きたいという夢があります。 賛同頂ける方は是非サポートお願いします。