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昨日見た夢を思い出せない 完結(中編小説)



ホテルラウンジの縦長の大きな窓ガラスの前に白い机と花を生けた花瓶があって、重そうに頭を垂れていた。横にさっとパレットナイフが動いて、黒く塗りつぶされて行く。花が夜よりも黒い闇の中に隠れる前にかすかに揺れて、水蜜桃のように甘い、蜂を引き寄せる匂いがした気がした。

──ゆかちゃん!
──よかった。大丈夫だった?あのとき別れたけどうちに泊まればって誘えば良かったと思って。

「おとわね、電池が切れちゃってたんですって。ふらっといなくなっちゃったじゃない。心配したぁ。ほら、あのあたり、治安よくないから」
ゆかりは自宅の一室に置いた、従弟のためのアトリエの中で、晃一に話しかけ続けていた。晃一、パレットを握って今もカンバスに向かう従弟の前には、ライブ用のカメラが回り続けている。
従弟は昨日のイベント続きで興味を持ってくれた人へのサービスにライブパフォーマンスをしていた。音は切ってある。ゆかりは従弟から、気が紛れるから、ずっと何か話していて、と頼まれていた。
その方が筆が進むから。

実の父にも、華々しい現代アート一派からも突き放された彼が身を置いている最後の拠り所がゆかりの家で、血のつながりの薄い他人同士が肩寄せあって奇妙な家族を形成している。
「それでね、話してたらロビーに男の人が降りてきたの。背広姿で、おとわと一緒にいるの。あら?あらあら?これは誰かしら?って」
カンバスの上の黒さは、最初は子どもの落書きのような塗り方の適当な塗りつぶしに見えた。それからおよそ十分程度で、ここまでというような写実的な星空と湖に映る木々とさざ波が出来上がっていく。

「まだ若いけど落ち着いてて、無駄なことは言わないの。それでこちらに保護者みたいな顔してお辞儀したのよ?昨日はお世話をかけました。迷惑をかけてすみません。ええ、僕は婚約者です。これでも一応。って。そう言ったの」
さっと白い絵筆が走り、彼はまたカンバスを白く塗りつぶして星空を消してしまった。ライブ映像越しに視聴している人々が、あっと小さく声を上げる間に、また丁寧に細部まで塗りつぶし、下塗りをはじめる。
創っては廃棄していく。塗りつぶしては新たに描く。いくつもの絵が描かれては見守る視線の前から消えていった。
起きては忘れていく記憶のように。

「そこに息を切らせてやってきたの。おとわちゃんのお友達。ちっちゃくて元気な、横からよく口出してくる、おしゃべりな子」
「またそういうこと言う」
久しぶりにこの子の声を聴いたと緑《ゆかり》は思った。ちゃんと聞いてるのね。
「何度か一緒に来てた。覚えてる?可愛くてせわしないでしょ。おとわちゃんが話したいことがあっても、横から取っちゃうのよね。その子が血相変えてやってきたの。やっぱり心配してて、電車乗り継いで来たんですって。そしたらその男性の方はすっと立って席を外したわ。用事があるからって言ったけど、気を使ったみたいに見えた」

今、カンバスの中に広がっているのは揺れる草原だった。絵筆がそっと置かれるごとに、ばら色の点が一つ、また一つと浮いて、顔を寄せ合う三つのひなげしの花になった。

よりそった髪が波打って花びらのように広がった。二人でおとわを囲んで問い詰める。
「婚約ってほんとなの?困ってない?それって大丈夫なの?」
「もう付き合ってたの?約束したの?」
ほとんど同時に言うので、声が重なる。
「そういうわけじゃないけど。ちょっとからかったんだよ。さっき、あの人、笑ってたから」
「からかって婚約者はないでしょ!」
 これくらいのことは言うよ、と伊笹が囁いたから、おとわも、ほらね会ってたの、女の子だったでしょ、と返した。

「それでいいの?やってみるつもりなの?」
おとわは、考え考え、ゆっくりと言う。
「好きになりかかってる。もう好きになってると思う」
みゆが体を投げ出すようにしておとわの方に身を投げかけたので、ゆかりはよけた。叫ぶように言う。
「そっちのほうがいいよ。絶対だよ。応援するよ!」
みゆの言う、「そっち」じゃない方が誰を指しているのか、ゆかりにもわかる。おとわはいつものようにぎゅっと口をつぐんでしまう代わりにことばを続けた。
「昨日ね、会える最後のチャンスだったでしょ。今までどこにいるのかもわからなかったから、ずっと苦しかった。心のどこかに残したままお付き合いしてみるのはよくないと思ったの。お見合い関係なく、このままじゃわたし、誰ともうまくいかないって思った」
こんなにはっきりと、おとわがゆかりの従弟に対する気持ちを声にしたのははじめてのことで、二人とも黙って静かに聞いていた。
「それはね、やっぱり、伊笹さんの顔を最初に見に行って感じが良かったから、そんな風に思ったんだよ」
おとわはちょっとスカートをつまんで直しながら、思い出すような目をした。
「だけどお見合いの時は伊笹さん、ちょっと沈んでた。あまり嬉しそうな顔してなかったの。嫌なのかなって。だったら、行かない方がほっとするんじゃないかなって考えたかもしれない。ご両親にはとても失礼なことをしたし、けど、ここに来て良かった。絵を見れたし、何よりすっきりした。イベント会場出てからは道に迷った気がしてた。実際迷ったんだけど、気持ちもね」

ゆかりの話を聞きながら、晃一は手を動かし続ける。
星空を描くために紙を置いてブラシを散らせた星々が、今度はスプレーによって夜空を明け染めるほの暗い朝焼けに変化していく。
朝焼けがいよいよ赤さを増して、四方から押し迫る炎となって燃え上がり、めらめらと燃える炎が焼き尽くして動くことも出来ない。
夜空を見ていた時には気付かなかった一つの木が現れた。
炎の木だ。
ライブパフォーマンスの視聴者数はひとり、またひとりと増えて行った。

「お見合いの話は、もうきれいさっぱりなくなったと思ったよ」
「私だってそう思ってたよ。なのにね、いたの。いたんだよ。そこに立ってた。来てくれてたの」
おとわの寝不足で潤んだ視線が遠い所へ向かう。ライトの光が揺れて周囲がかすんでいく。
「こわい顔してた。怒ってるのかな?って。そりゃそうだよね。なんて自分勝手なことしたんだろうってきゅうっと胸が痛くて、すまなくて、だけどぜんぜん後悔してないの。ただただ、嬉しいだけ。この人が突然現れてよかった。嬉しい、嬉しい。それだけ」
体が浮くような気がして、意識が途切れてどこかに走り出したとき、心がどこにあるのかはっきりわかった。
「わたし何か行動を起こしたかったんだと思う。けれど、起こしたからって、その行動の結果を受け止めてくれる人がいなければ、何も始まらないんだよ」

カンバス中では、一度朝焼けを迎えた湖が、また今度は新たな夜を迎えようとしている。湖の中に一羽の鷺が立っていた。足元の波紋の中に、湖に映る自分の姿を痛いほど見つめている。
筆を何度も何度も塗り重ねていくうちに、次第に絵具が盛り上がって、それ自体が奇妙にでこぼこした岩の様相を見せる。
この消されてはまた現れる、次々に上へ上へ重ね塗りされていく新たな絵は、創造者の想像にまかせた全く脈絡もないものかというと、そんなことはない。ゆかりのしゃべっている内容を忠実に追いながら、彼が受け取った彼なりの世界の様相を映していた。

彼の描画工程には華があって見せ方を心得ている。迷いがない。試行錯誤がない。
その目の奥に何があるのか、これほどすんなり迷いなく描き出せるのがすごいなって、そう言ってました。あなたの描いてるのを見るのが一番好きなんです。おとわは。
みゆがそんな風に言っていたなと、ゆかりは思い出す。
工程を見せるなんて邪道だ、完成されたもののみで勝負すべきだとたくさんの影が言う。従弟は何を言われても平気だと言った。
もう失うものは何もないから。
ぼくの絵を認めていてくれる人にずっと見ていてもらえたから、いまこんな風に描けるんだ。

晃一は最後にカンバスを白く、何もなかったかのようにまっさらに塗りつぶしてライブを終えた。
無言のままカメラを止め、タブレットを閉じて立ち上がった。
すっきりと満たされた笑顔でゆかりの背中を追って扉へ向かい、灯りを消して晃一はアトリエをあとにした。
二、三歩下がって、もう一度カンバスを見つめる。
彼には見えた。
立っていた鷺は、夜空へ身を投げるように両手を広げて上を向いた。羽毛が広がりくちばしを空へ向け、今にも羽ばたこうとしている。

飛び立って翼は空を切り、生きづらさ繊細さを踏みにじっていく容赦ないブルドーザーの地ならしを紙一重でかいくぐりながら、たった一つの何かを探しに探す。
からからにひび割れた大地に雨は偶然の産物だ。だからと言って、このまま照りつける日差しにしなびてしまうのか、群生して身を守ろうかなどと、考えもしない。ひたすらに飛ぶ。
たった一つの理解、視線、笑顔があれば、砂漠にも海にも身を投げてかまわないと叫んでいる。
大きな天の川にかかる不思議な橋の下をくぐって真っ直ぐに飛ぶ鳥が一直線に向かう先は彼には見えない。
もう思い出そうとすることも忘れられた夜の夢のように消えて行った。


終わり



目次


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