昨日見た夢を思い出せない 13(中編小説)




若い二人がお互いに受話器を耳に当てながら、ひとりは突っ立ち、ひとりはまだ夜の神戸を走っている頃、この一日の騒動に心落ち着かない親たちも眠れずに顔を合わせていた。
仲人役をつとめそこねたみゆの父は、口元の髭を撫でながらソファに体を預けてコーヒーを飲んでいた。最初は残念な失敬なと思っていたが、思い返してみれば何が起きるかわからない興奮があり、刺激的な一日だった。。妻の疲れた顔にいたわるよう声をかける。
「あの伊笹くんはなかなか好青年だった。一人息子なのが残念だ」
「どうして?」
「婿養子にはなれんなあ」
みゆの母は顔をしかめた。
居場所がわかったから、ちょっと行ってくるとみゆが飛び出していってまだ連絡がない。
「どこにおむこに行かせるつもりなのよ、ちょっともう無理よ。一度こんなことになっちゃってるから」
「みゆが会いに行ったらしいよ」
何気なくその言葉は空を舞って、ほのめかし方もごく自然にうまくやったと思っている。
「あの二人、合うんじゃない」
母親の方は嫌気がさしたと言うのも面倒臭い。声を天井まで吊り上げた。
「みゆはもう彼氏がいますから!」
「何だそれは?ちょっと初耳なんだけど」
「あなたには初耳かもしれないけどいるの。結婚の話ももう出てるの」

相手を観察して見定める。気があるかないか。いけそうかそうでないか。
フィーリングを受け取る。いい人そうだな。好みが合うな。周囲に気を使うな。感じがいいな。
すべて、何の意味もない。
これは事故だ。クラッシュ。


気まずい空気のまま顔合わせが流れた後に、拓也の両親はお腹がすいてくる。慣れない道をさ迷った挙句に見慣れたチェーン店に入った。息子の部屋に押しかけることを断固拒否されたのと、観光を兼ねて旅行を計画したので、ホテルは取っていた。息子が不憫で仕方がないのは一致していたが、今は何を言うのもはばかられた。
味気なくぼそぼそ食べながらも、それなりに腹が満たされると調子が出てきた。母親は声をひそめて父親に言う。
「帰り際にあの人に聞いたんだけどさ、おかねもってないって」
「は?どういうこと?」
この二人はとにかく常に何か話している。そんな時息子はずっとほったらかしだ。そして離れて黙っていても、耳はいつも開いていた。
「相手の子。お母さんにクレカを渡しちゃってるらしいの。こっちに来るときの切符買う時に」
「普通あらかじめ買っとくだろチケット」
「知らないわよ。買わない人だっているよ?それで、おとわさんはあのお母さんにクレジットカードを渡してそれで買って、返さなかったんですって!財布の中にはあまり入ってないと思うって言ってた。払うときちらっと横から見たって」
「そんなこと言われてもなあ…なくなったら電話するだろ。そしたらあのお母さんがそこに行くよ」
珍しく間があった。
「何でこううまくいかないのかね」

息子のワンルームには一応寄ってホテルに戻った。思ったより汚れていなかったが、それは汚すほど家に帰っていないからに見えた。洗われて分別されたゴミの袋をつまみあげたことを思い出し、母親はつぶやく。
「あの子も割とやってんだね、あんなこと」
「そりゃやるだろうよ」
母親が突然、激しい調子で言う。
「あの子だって悪いところあるって。絶対あるって。気に入られなくても仕方ないわ。だって、離婚してんだもん。バツイチよ?」
「そりゃおれだって思ったよ」
「びっくりしたわ。こころさんがあんな狂ったように大騒ぎするなんて誰も思わないじゃない」
「ありゃ相手がおかしいよ。浮気してるわけでもないのに、訴訟だの慰謝料まで言い出してさ」
「礼儀正しい、まともないい子に見えたのに」
「人は見かけによらんということだよ」
「あんたね、違うよ。結婚したりすればそりゃ、何かと不安が出てくるでしょ。価値観の違いをすり合わせてさ。それをね、ちょっとぶつけてみようとしたんだよ。こころさん、何わめいてんだかよくわかんなかったけどさ、話聞いてたことをさ、今つくづく思い出してみたらね、そう思ったよ。あることなんだよ。よく気持ちを聞いてさ、話し合ってさ、それをあの子はバッサリ!」
母親は手を振ってみせた。空気が鋭い音を立てる。
「切り捨てたんだよ。じゃあ、いらないから!みたいな感じでさ」
「じゃあお前はあっちを擁護するのかよ。あのとき、おまえそんなこと言ってなかったじゃないか」
「擁護するわけじゃないけど、なんかうちの子もひどいなって思ったの。あの子いつも黙ってるようでじっと伺ってて、向こうみずにぱっと飛びつくけど、失敗したら最初からなかったような顔をするんだ」
けたたましい音が鳴り響いて二人は飛び上がった。母親の携帯だ。慌てて取り出すと化粧のポーチが落ちて口紅まで転がる。父親が拾っている間に、母親は何やら腰をかがめながらはい、はい、と丁寧に話している。
「何だ?その電話」
母親が電話を突き出してきたので、父親が変な顔をしてたずねた。
「今度は向こうの父親が出てきたわよ。あなた変わって」
「父親?」
「おとわさんのお父さん。離婚した先の父親!」
今度は父親が部屋の端に寄って腰をかがめながらはい、はい、とやる番だった。今どき珍しい折る携帯をぱちんと閉じて戻す。頭を掻いて、父親は妙な顔をした。
「何だ…まあ、普通の人だったな。丁寧に謝ってた」
「落ち着いてたよね。ガサガサしたあのお母さんとは違ってた」
「パニックになってたんだからやめろその言い方は」
「まともだったよね」



からっぽの家の真ん中に立って、おとわの母は見渡していた。もう慌てることにも疲れ果てて、どすんと荷物を起き、座り込む。
家はやけに様変わりしていた。カーテンはカントリー系の落ち着いたものに変わり、あの子、こんな趣味だったんだと意外に思う。おとわの部屋に行くと、壁紙まで変わっているのには驚いた。壁には、明らかに母親の趣味ではない油性の絵が額縁に入って飾られている。
 ここはもう、わたしのうちじゃないわ。
それは古い実家の平屋建てを介護用に改装して、ベッドで目をつぶる母親相手につぶやいたのと同じだった。
あそこはもう、わたしのうちじゃないわ。

おとわの母が母親の介護もあって実家に戻る気になったのは、夫がいなくなって必死でやってきた彼女におとわがこう言った時だった。
──お父さんね、もういつもベラベラ、ベラベラ喋ってるの聞きたくない。聞く気にならない。反吐が出るって言ってた。
わたしそれでもう、何もする気なくなったの。
あの家を維持していく気持ちがなくなった。だったら出て行っちゃえって。あの人も出て行ったんだから。おとわももういい大人なんだから。

おしゃべりはもう習慣というよりは生き方になってしまっていたから、今もおとわの母の口は動いていた。皺だらけで骨と血管が浮いた茶色の手に話していた。実家で実の母をみとりながらずっと、もう誰にも邪魔されることなくおとわの母は話し続けることが出来た。

浮気が本気になったとか一般的な離婚の理由を考えていたんだけど、そうじゃなかったところショックだったんだよね。他の人を好きになってしまったって、もうそれは仕方ないと思うじゃない。そういうことがないのに別れたいって言ったらそれはもう本当にどうでもいいんだって、ショックだった。
今になって思うんだけどさ、夫婦ってわりと話が通じたり、ちょっとイラっとした時に喧嘩になったりとか、そういうこと含めて生活が成り立っているわけじゃない。
あれなんだよね。ウェーブを描いてるグラフ。バイオリズムみたいな、心音図みたいなもの。生きていくことそのものみたい。ゆるやかに上下する。
百パーセントってのは正直ありえないんだけど、今日はすごく嫌だなって思ったときはもう三十ぐらいに下がってたりする。逆に今日は八十だみたいな時もあって、ぜんぶ合わせてみたらトントンで五十五十で生活成り立ってんだ。
いびつだったかな。それ。今思うとね。私は私のパーセントしか見てなかった。それは確か。けど全てずっと一律ではないから。

いつもなら、とめどないおしゃべりをどこかで止める何かの事象が起きるのに、何も起きないことをおとわの母親は不思議に思った。寝たきりというと、ずっとじっとしている人を想像するかもしれないが、そんなことはなかった。時にはベッドから落ちてしまいかねない割と激しい動きがあり、声にならない声があり、排泄のサインも、空腹のサインもすべてあった。

また手を取り合わないといけないようなトラブルが起きた時に、もうだいたいさ、わかってるから。こういう風にすれば手を結びあえるみたいな感覚がね。ああやっぱり手伝ってくれないとなるともう破綻だろうし、トラブルで顕在化する。また一時的に手を取り合ってやっぱりこの人だなって、私が結婚した理由がここにあったなって、そういうふうに思うこともある。
そしてね、そんなトラブルの種を子供が作ったりするもんなんだよ。



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