オレンジ色のひまわり(短編小説)
これはわたしのママの話です。
私のママはいつもちょっとだけ狂っている。
* * *
ピアノのお稽古からの帰り道、手をつないでのんびり歩いていると母が突然立ち止まった。
「大変!」
「ママどした?」
「ルリもう八歳だよ?」
「それがどうした」
ルリアは母の子供っぽい仕草に対してたまに大人みたいな口をきいた。
さっきまでご機嫌で鼻歌を歌っていたのに、母はルリアの手を離すと頬を両手で押さえた。
「八歳ってことは、もうあと一年で九歳になっちゃう、そしたらすぐ十歳!」
「そうだよ?」
「ああ~、ルリこんなに可愛いのに大きくなっちゃう…やだなあ」
「ママ、まっすぐあるいて!」
前から自転車が一台、こちらに向かってくるのが見えた。
広い道だ。ほかに人影はない。
二人は南側の路肩よりを歩いていたがさらに壁際に寄った。
自転車はスピードを早めた。
主は四十代から五十代だろうか。
よろよろ、がたがた、石がはじける。
二人めがけて壁際に壁際にと突っ込んでくる。ちょうど二人を引き裂くように、真ん中目指して。
自転車のタイヤの回転がスローになってはっきりと見えた。
感情は全く読み取れない。
グレーのジャケットにグレーのズボン、どこもかしこも着古して薄汚れ、そこだけが暗い影に包まれているように見えた。
母はすばやくルリアの腕を掴んで体に押し付けるように抱き、電柱の影まで下がってよけた。
電柱がなかったなら、ぶつかっていたかもしれない、そう思うほどすれすれの位置を自転車は通り過ぎる。
舌打ちが聞えたような気がした。
ルリアはしがみついたまま上を見上げる。
母の顔色が冷たく硬く、真っ白に変わっているのを見た。買い物袋に勢いよく手を突っ込む。
ルリアは叫んだ。
「やめてママ!」
振り向きざまに母の腕がしなった。
「目が見えてねえのかあ!おっさん!」
投球のフォームを取って、後ろ頭に思いっきり投げつけたオレンジは弧を描いて飛ぶ。的を大きくはずれた。
街路樹をかすめ、古い看板に派手な音を立ててぶつかる。
跳ね返るかと思ったオレンジは、看板から突き出ていた古くぎに突き刺さって引っかかった。
おじさんにぶつけなくて良かった、ルリアは胸を押さえた。ぶつけるかと思った。
下手なのか、本当にぶつけるつもりはなかったのかはわからない。
オレンジは季節はずれにとつぜん生《な》った実のように、看板にくっついている。
何かがぐらりと動いたような気がした。
地面が揺れる。
看板はそのまま重力に従って下にひっぱられるようにどしんと落ちていた。
振動が伝わったのか、さっきオレンジがかすった枝から何枚か枯葉がゆっくりとおじさんの頭に舞い落ちる。
落ち葉が肩に触れたのがまるで石か何かが落ちてきた打撃だったように、自転車は唐突にバランスを崩してよろよろと蛇行する。
ゆっくりと、そのまま横倒しに倒れた。
そこに前から音もなくセダン型の電気自動車が超特急で走ってくる。オレンジを投げてからここまで、すべては数秒の間だった。
クラクションと急ブレーキの音と叫び声が入り乱れて二人は思わず顔を覆った。
用心深く目を開くと、車は自転車をよけ空き地に並んだゴミ箱の中に突っ込んでいた。
おじさんはまだ起き上がらない。
通りかかった何人か、また店から飛び出した人たちが四方から駆け寄るのを二人は突っ立ったままぼんやりと見ていた。
ふと気が付き顔を見合わせる。
「逃げろ!」
「もうママ!」
「すいません」
母は神妙な顔つきで、八歳の娘の前に膝をそろえて座っていた。
「無事だったから良かったけど!ぜったいにだめだからあんなこと!あの人が車にひかれて死んじゃったらどうするの!?」
「もうしません」
「ママ!さつじんはんになっちゃうよ!?」
頭を垂れて聞いていた母の肩が不自然に揺れている。
「あははははははは、ははははは」
目から涙が流れていた。
転げ回って笑っている母に、ルリアはいよいよ怒った顔になった。
「笑い事じゃないでしょ!」
「可愛いルリ」
「かわいいじゃない!!話きいて!」
* * *
ママはわたしとは血がつながってない。パパが離婚したあと、新しく来たお母さん。でもすごくかわいがってくれる。
洗濯物を取り込みながら鼻歌を歌っている。
「アダンの木の実を揺らして鳥のような声を出すの。ルリ、ルリ、ルリって」
ほんとうのおかあさん、っていう言葉に意味は無い。
わたしのことだいすきみたい。
パパのことより好きみたい。
ただちょっとだけ…私のママはいつもちょっとだけ狂っている。
ねじれた茎を持って太陽に真っ正面に花を開く、オレンジ色のひまわりのような人なのだ。
終わり
※この作品も完全にフィクションであり、実在する人物・地名・団体とはぜったいにまったく一切、関係ありません。わたしはオレンジを投げつけたりしません。
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