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昨日見た夢を思い出せない 10(中編小説)





おとわは携帯の画面を凝視した。
これはテキストのメッセージじゃない。着信だ。
実感はマナーモードにしていた携帯の震えから指に、通知を捉えた視線から目に伝わった。震えは炎になり、血管をかけめぐって真冬なのに体中が熱くなった。

「はい」
不機嫌な、かたい声だ。そっちからかけてきたはずだが、まるで迷惑なのにおとわの方から無理に頼んできて、仕方ないから話に付き合っているとでも言いたげな声だった。
「おとわです」
続けようとする隙も与えずに、相手は切り口上で事務的にてきぱきと言う。
「神戸周辺に宿が取れたから、そこに行ってください。必要なければそのままでかまいません」
「今どこ?」
「こちらが勝手にしたことなので」
「どこにいるの?」
今度はとまどった返事が帰ってきた。
「駅に…いる」
「駅って?」
名古屋駅だろうか。
「神戸駅」
「じゃあそこにいて!今行くから」
葉の落ちた街路樹の枝が走るようにざあっと動いて、全てが流れるように電車の景色のように動きはじめた。走り出していることに自分で気付かなかった。

神戸駅ということは、このイベントのことを知っているということだ。
どうして?なぜ?来てくれたの?そこにいるんだ!
そして電話をかけた。
連絡先を知らないのに、探して、みゆのママか誰かに聞いて、わざわざかけてくれたんだ。
財布はからっぽ、クレカもない状態のおとわにホテルを手配してくれた親切のことは、ほとんど考えなかった。会ってどうするのか、話をした結論も結果もどうでも良かった。両家顔合わせのこともきれいに頭から消えていた。ただ彼が新幹線の駅をいくつも隔てた遠くの空間ではない、歩けば会えるほどすぐそばの距離にいて話している。
新幹線を使わねば会えないほどの距離からいっきに、来てくれた。まるで空を飛んだかのように。
その喜びが周囲の暗い、かたい景色だけをすべて後ろに押し流していく。

「そこに行くから!」
おとわの声の調子に、伊笹の声のトーンも変わった。
「どこにあるかわかるの?」
「駅はわかる」
すると、ぶっきら棒にこんなことを言う。
「駅じゃなくて、まだホテルにいる」
「わかったホテルね。ホテルの名前は?」
もう充電が切れそうだ。
「そっちは今どこ」
おとわはいったん立ち止まって息を整え、周囲を見渡した。
倉庫ばかりが立ち並ぶ界隈から、ぽつぽつと店が混じり始めているエリアになっていた。それでもみなほとんどシャッターが降りているし薄暗さもあってよくわからない。
「位置情報をオンにして」
よどみなく、彼の声が指示をした。落ち着いている。興奮したおとわの声とは対照的だ。懐かしい声だった。数えればたった数日しか会っていないはずなのにどうして懐かしいと感じるのだろう。
「ひとり?」
「ひとり」
「手持ちがなくて泊まる所もないって聞いた。佐次さんから」
みゆのママがそんなことを知っているかな。すると伊笹は電話越しに言い直してきた。
「佐次さんの娘さんから」
それならみゆだ。

位置情報を共有にしてメッセージ送信した。少し間があるのさえじりじりと待てないほどで、無意識に足踏みをしそうになっていた。頬の熱さとは対照的に、体が凍えるように寒い。薄いストッキングにパンプスの足の指がすっかりかじかんで凍えそうになっていることに、おとわは今頃気がついた。
「そこにT──っていう店があるから、そこを左に入って。大きな道に出る。高架下をくぐって」
「出た。出たよ」
いつの間にか車通りの多い、大きな道沿いを走っている。もう暗い港町ではない。街路樹はきらびやかなイルミネーションをまとい揺れて瞬いている。
「まっすぐ行くとL──がある。横断歩道をはさんで、その先」
もつれる足ももどかしく走った。たったひとつ残った火花を大切にと、携帯をぎゅっと握りしめた手の中に、いつしか電源は落ちていた。
からっぽになったと思っていた心や、天上にある美しさや四方から押し潰そうと迫る闇、どれもあっけなく吹き飛ばしたのは、血の通った体温のある声だ。

伊笹はホテルの部屋で話している。ちらっと時計を覗いた。
キャンセルしないなら自分も泊まる場所を探さないと、と考える。終電を過ぎてしまったが自分は何とでもなる。男だから。
そう考える彼には多少誇らしげな表情があって、実際に何度も、残業や出張でネットカフェで夜を過ごしたり、簡易シャワーがついていれば浴びたりしたことがあった。バッテリーは常時持ち歩いているから困ることはない。
久しぶりの新幹線でわずかとはいえ仮眠をとり、元気になっていた。

神戸について知らない人は神戸駅の存在に多少とまどう。
新幹線を降りたのは新大阪、ここかなと思ったきらめく繁華街は三宮で、元町駅をすぎ、どこまで連れて行かれるのかと考え始めた所で止まった神戸駅だ。新幹線の停車駅でもなく、ごく普通の駅だった。神戸という名前を冠しているのに。
ハーバーランドの最寄駅のはずだが、オフシーズンの今は土日にも関わらず思ったより人が少ない。現にこうしてホテルも当日にも拘らず拍子抜けするほどあっさり取れた。だがチェックインをする必要があり、何となく鍵を受け取って何となく部屋に入ってしまった。

まさか彼女に連絡がつくとも思わなかったし、来ると言うとも思わなかったから、伊笹は半ばそのまま自分が泊まる腹積もりでいた。どうしてここまで来たのか自分でも説明できない。しいて言えば、ちょっとした非日常のイベントのようなつもりだったかもしれない。
今日は土曜日の夜。
明日は日曜日だ。
迎えに行くほど親切な気分にはなれなかった。
別に会わなくても、電話で説明だけして、ロビーに鍵を預け、無事についたことだけ確認すればとんぼ返りでそのまま引きかえしてもいいと思ったが、予想外に夜が更けていた。
部屋にいてはまずい。伊笹はロビーで待つつもりで鍵を立ちあがった。




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