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昨日見た夢を思い出せない 7(中編小説)




からんと店の扉の上についたドアベルが鳴り響き、凍るように冷たい風がさっと吹き付けてその子は冬の隙間風と一緒に入ってきた。
伊笹が顔を上げると、汗をかいて髪は乱れていた。まるで風に巻かれでもしたかのように。

なぜ?
なぜあの子はあの時、あの場に来たんだろう。

取引先の女上司が嵐のようにやってきて、勢いよく見合いの話をして出て行った日には飲み会があった。取引先の若手が知り合い同士、何人か声を掛け合っているとのことで、伊笹が行くことにしたのはほぼ先輩のためだった。野放図で遊び好きな所があって、勢いでぐいぐい食い込んでいく。そんな先輩が出向先の中にあって、これまで随分自分を抑えていたのを伊笹は知っている。だからほぼ用心のためのお目付け役のようなつもりでいた。
飲んでいたのはあまり建付けがよくないビルなので隙間風が入る。冬だからなお寒い。入り口近くの席だった。

美に感じる衝撃は熱さよりも冷たさに似ている。
率直に可愛いと、最初に伊笹はそう思った。派手すぎず地味すぎない、落ち着いた雰囲気がいい。
「みはまおとわちゃんです」
だがその子は、自己紹介をにべもなく断った。発起人の女子の一人と声を低めて話をしている。名前は知ってるんだから…。せっかく来たのに…。空気悪くしないでね。相手の声が大きいので内容は伊笹に聞こえていた。気分を悪くしたようで、彼女はひどく気に入らない顔をして一番奥の席に一人で座る。伊笹の視界からは見えなくなってしまった。

窓際にいる男性の何人かが、彼の頭越しに顔を寄せ、彼女の方を見ながら何かを囁き交わしている。
おとわと呼ばれた子は、眉を寄せて小さくなっていた。男性とも女性とも交わらず、ならばなぜこの場に来たんだろうと、あの時伊笹もちょっと不思議に思わないこともなかったのだ。
「これは伊笹拓也さんです。さそったのわたし」
「こいつあんましゃべんないから、つまんないすよ」
もう新システム構築はほぼ終わっている。メンテナンスも兼ねて一年ほどこの会社には入っていて、若手の連中と知り合いになり何度か昼食を一緒に取ったりしていたから、顔見知りはいる。

やがて場にも酔いが回ってきた。机は別だったのに、先輩はわざわざ窓側の賑やかな席に移動した。伊笹の離婚をネタに、こちらを指さしながら話している。慣れているので伊笹は気にも留めなかったが、聞かされている方の一人、チーフ株の割と年配の男性が気に入らない顔をしている。勤勉で実直ながら、激しさも垣間見せるタイプの彼と先輩は合わない。後ろの席に座っていた女子が、椅子の背越しに顔を覗かせて話しかけてくる。
「部長が見合いさせようとしてるの、名前なんて子だったっけ?」
「聞いてないので」
「どんな子か知りたいでしょ?」
「いや、いい」
伊笹はあまりにもぶっきらぼうに聞こえたのをはばかって、付け加えた。
「興味はないので」
その時は、他に気を取られていた。

議論がヒートアップしてきた中で、先輩の肘が泡の残る空のコップを押し倒したのだ。がしゃんと派手な音と共に、中身のまだあるビール瓶が机の端から落っこちた。
見ていたからさっと動くことが出来た。伊笹は自分からめったに話さないから、陰気な扱いをされると思われがちだが、逆に周囲に目を配っていることでこういうタイミングをつかむやり方を知っていた。
うまいこと落ちかけたボトルをこぼさずに掴むことが出来たので軽く喝采が起きる。自己満足を感じながら席に戻ると、空いていたはずの席に誰かがうずくまっている。

『みはま おとわ』は、目を見開き口はぎゅっと閉じて、じっとこちらのお腹の中まで見据えるように座っている。
「みはまおとわです」
「いざさたくやです」
「お世話になってます」
見たことはないが、お世話になんてなったかな、そう思いながら社交辞令と受け止めた。見合いなんて思いがけない話が来たばかりなのに、この会話自体もまるで見合いのようだ。
「どうも」
伊笹は短く低い声で言った。

急に彼女が口を開いた。
「バツイチだって聞いたけど。離婚してるの?」
むっとする暇もなかった。
「どうして離婚したの?」
しばらく黙っていたのは戸惑いが大きかったのと、不意を突かれたのもあってか伊笹は突き放す代わりに真面目に答えを探していた。小さな頃から聞き飽きるほど言われてきた親の声が聞こえる。思っていることは言葉にしないとだめよ。他人にはわからない。気持ちは言語化すべきだ。この国際化社会でやっていくには…。
言われれば言われるほど伊笹は貝のように口を閉ざす。

彼は自分が口下手であることは十分にわかっている。友人一同にも、女にもてる奴は口のうまい奴、という共通認識がなんとなくあって、こいつはモテはしないだろうという安心感と多少ばかにした雰囲気が確かにあった。
完璧超人になりたいわけじゃなかったが、弱点を補完したいというひそかな望みは持っていたように思う。話す時間を観察する方に使っているからチャンスはわかるのだ。落ちたボトルをうまくこぼさないように掴んだように。元妻との結婚はそういう種類のものだったような気がした。
そんな飛びつき方を周囲も見透かしていて、思わぬ大胆なやり方に驚くと共に失敗すれば笑う。

「あまり得意じゃない…。気持ちを話すの」
質問の内容はともかく、彼女の話し方はゆっくりで、あまりテンポが早くない。
彼も言葉を探して何かを言う暇が出来た。こちらが言葉を探しているのもわかるようで、じいっと沈黙に耳を傾けていた。
彼女はそしてこんな風に言う。
「うちね、親が離婚してるの」
ぽつぽつ話をした。
「おしゃべりで離婚したの。お母さんがしゃべりすぎるからって。うるさくて休めないんだって」
そんな理由もあるんだな。
伊笹がほっとして笑うと、彼女はずっと不満げだった口をまげて、やっと笑顔を見せた。
柄にもなく、気分が高揚した。浮足立つのを感じた。
「名前、おとわっていうの?」
「うん」
「うちの父親、もうとっくに退職したけど、昔勤めてた会社が音羽って所にあった」
今、思い出したのだ。彼は父親の会社には興味などなかったが、響きに覚えがあった。

さっき扉を開いて突然現れた子が、感じがいいなと思った子がこうして横にちょこんと腰掛けている。彼に向かうその視線の中に、奇妙な必死さがあるのを伊笹は見た。目に何か言いたげな光があって、彼にまっすぐ注がれている。
そして、その必死さに呼応するように、伊笹は、自分がひとりだということに突然気付いた。

お開きの時間が来て外に出てからも、二人は少し並んで歩いた。
誰かが話している声が聞こえる。
「入るとき、何か看板にぶつかったよね」
「あれ大きな鳥だったよ」
「空を飛んでいる」

一人であることに十分に満足している。誰か、自分を受け入れてくれて、わかってくれて、積極的に人間関係を結ぼうとしてくれるきれいな子が奇跡のように現れるんじゃないか、そんな望みをもう持ってはいないのに。そのままでいいと言ってくれないなら知るものか、とかたくなに扉を閉ざすその中に、自分はこうなんだからこうと認めてくれという我が、強い思いが先にありはしなかっただろうか。
受け入れたい。
そう思った時、ぐるっと世界が反転した。
何もかもさかさまになり、天空が床になり、地面が天空となってネガとポジは入れ替わり、何もかもさかさまに、時と空間もごっちゃになり…。

伊笹は思い出した。
思えば入ってきたあの時、女友達と囁いていたあの時も、彼女の視線をずっと感じていたかもしれない。よくある気のせいだと思っていたが、あとで思えば気のせいではなかった。
彼女は知って来ていた。自分を見るために。






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