昨日見た夢を思い出せない 8(中編小説)





おとわは我に返った。
棒立ちになって絵と彼の背中を見つめている間、ゆかりはそっとしていてくれた。反射的にチェックした携帯には、さらに着信が増えている。そのほとんどは母親、みゆ、それとみゆの母からだった。父からはもう何もない。
さっきまで記憶が飛んで戻っていた場所に、まだ心が残っている。二人で店を出た。集団は次第に離れていって、二人は取り残された。あのままでいたい。夢うつつのままでいたかった。あの場にいる誰も、この場にいる誰もが檻の中で右往左往している。不満顔で、不安を抱えて。おとわも閉じ込められていた。彼に会うまでは。

見合いの席で再会した時、伊笹はもうおとわがあの会になぜ来たのかまですべて知っているようだった。ずっと何も話さず、笑顔なのにどこかぴりぴりしていて、その沈黙は雄弁だった。あんな風に小細工を弄したり、黙って試されることが好きではない。そう全身で示している。
おとわは震えるほど怖くなった。不安で早く二人きりになって話をしたかった…。
見合いが終わると、どうぞお二人でと定石どおりに行儀良くうながされたみゆの両親に伊笹は言う。
「これから外せない仕事があります」
「あらそうなの?」
みゆの母はあからさまに不安そうな顔をする。伊笹とみゆの父は、こちらに背中を向けて何か話している。仕事ってなに?本当に仕事なの?これ以上わたしと話したくないから?この場で断られる?
伊笹は最後まで丁重に、おとわにも柔和な笑顔を見せて去って行った。
あとで、電話がきてことわられるのかな?
断りの電話は来なかったし、その変わりに顔合わせの話が来て、ますますおとわはわからなくなっていった。どんどん話は先にすすむ。母は飛び立つほど喜ぶし、みゆの口から、システムに調整が入ることになり、伊笹が本当に繁忙期に入っていたこともわかった──。

「ろくに話をしないまま親の顔合わせするの?いくらなんでも無茶苦茶じゃない?」
「見合いっていうのはそういうものよ」
母はこともなげに言う。
久しぶりに会いたいと、岡山の祖母の家にまでおとわは訪れた。古さびた家のなお古さを増した暗さに驚いた。小さい頃にはあれほど明るく、光が射して珍しく楽しい場所だったのに。
祖母の部屋はいつの間にか板張りに変わり、手すりが付けられ、ベッドが置かれている。殺風景で味気なく、見たことのない他人の部屋に思えた。その上にじっと寝たまま天井に目を据えている祖母も、懐かしい岡山のおばあちゃん、ではなくなっている。まるで知らない他人のようだ。そして一緒にいない時間が長くなった分、どこか家族らしさが抜けて人間味のなくなっている母も同じだった。
「連絡、してみればいいじゃないの。デートもどんどんしなさい。親の顔を知ることとそれは邪魔にはならないでしょ?ダメなら別れたっていいし、でも結婚を前提にするなら先に親の顔を知っておくのは当前だわ!勢いが肝心なのよ。ゆっくりなんて言ってたら欲が出るでしょ。最近の子はみんな我儘なんだから。変なとこばかりきちっとしてるくせに我儘よね。我慢すべきところと許すところをはき違えてる。無口な人、いいじゃない。だって扱いやすそう。うちの近くに住んでもらえれば…」
口数の多さは変わらないのに、奇妙に現実味がない。
連絡先、知らないの。
そう言うことがおとわには出来なかった。取ろうと思えば取れる。みゆのママに聞けばいいだけなんだけど聞けない。そして、連絡しないままでいる彼女のことを伊笹はどう思っているんだろう。
彼の考えは、顔を見ればわかるような気がする。でもその顔を見るのが怖い。拒否されるのが怖い…。

こうして過去の記憶をたどっているおとわは今、この神戸のイベント会場にいて、憧れた人を前にしている。体はすべて視覚から入ってきた絵でいっぱいになり、足の先から指先まで完璧に満たされていたから、あの胸を締め付ける不安もなく、地面に崩れてしまいそうな重みもなく、立ったまますべてをよどみなくはっきりと思い返すことが出来た。

おとわは、彼の背中越しに題名を読んだ。
  空と大地が別れるところ
  先立ち楓
  昨日見た夢
また彼女は、彼の足元にぼろぼろと落ちている画材の名前を機械的に読んだ。ホルベイン…リキテックス。染みだらけの使い古した筆には一つ一つ、番号がついている。版画におけるバレンの大きなものは、どうやら自作だった。
一見意味のないランダムな色が、彼の黙々とした作業につれて大きな壁の真ん中に次々に乗せられていくうちに、次第に形を取りはじめる。花が開いていてそれは絵の具のしたたりで出来ていた。
 昨日見た夢だ。
心にことばがあふれ出してきた。

おとわは離婚することになった母を悲しませたくなくて、いつも言葉をかみ殺すのが習慣のようになっていた。父がいなくなったショックにしばらく動けなくなった母に変わり、黙って家事をした時も、働き口を地元で決めた時も。
元気を取り戻せば取り戻したで、別の影が落ちてくる。昔よりも笑い声に遠慮がなくなってきたような気がするが、それとも自分が我慢できるキャパシティがなくなったのか?年を経て母自身が変わってきてしまったのか、おとわにはわからない。
逃げ出したいと思った父親の気持ちがわかると思ってしまう。遅い反抗期なのよと言われれば、どうしてわからないんだともどかしい。いくら戦っても母は全くこたえないと思っていたのに、ふいっと背中を向けられて肩透かし、どこにも依るところがなくなってしまった。そんなときにこの人とこの絵に出会ったのだ。

この絵に恋をしていた。
この絵に抱きしめられたかった。
この絵が巻き散らす色を吸い込み、世界は変わる。

これほど遠くまで来たのに、いつまでもうつむいて絵の具の始末してる彼はこちらに目もくれず、ひたすら布で吹き、磨いては洗い、筆を置いている。早く行けってことなのか迷惑なのかもわからない。ほんとうはひとことだけ言おうと思っていた。
まだ、見たいから。あなたの描いたのを待ってるから…とだけ。
けれど目も合わない。
なにごとも語らない背中を見るうちに次第に彼女は悟る。彼はわかっていた。彼女を、おとわをおとわと認識している。
認識していて、あえて避けている。
そんな態度をおとわは今、自分が心から感謝の念で受け止めていることがはじめてわかった。
彼の世界は私を入れてくれなかった!入れてくれなかった!と恨みのように発露したはずの言葉が、しっかりとはがねのような意思で跳ね返されたことが良かったのだと、受け入れてくれなくてありがとうと思う。

おとわはずっと自分は何者でもないと思っていた。だが今、こうして何かを産み出せる人の前でちっぽけだと感じながらも、この人を評価できるのは私だからという自負だけが残る。
絵と彼は別物だ。
確かにその人から生み出されて出てきているものではあるけれど、この絵に呼応して呼び覚まされた感情はわたしから出てきたものだった、とおとわは考えた。




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