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【太宰治】私たちは、生きていさえすればいいのよ【ヴィヨンの妻】

『ヴィヨンの妻』には太宰の人生観が色濃く表れています。人生観のうち、内面的な領域が男に、外面的な領域が女の言動に顕著な本作を、ヘルマン・ヘッセやドストエフスキーとの類似点と交えつつ語っていきます。


■概要

  • 作品名:ヴィヨンの妻

  • 作者:太宰治

  • 初出:展望

  • 出版年:1947年


■あらすじ

 主人公・私は金遣いがあらくたまにしか帰ってこない夫・大谷とその間にできた赤ん坊と暮らすまだ若い女性。ある日、私のもとに面識の無い初老の夫婦が訪ねてくる。なんでも、夫婦が切り盛りする料理屋「椿屋」の金を大谷が盗んで逃げたというのだ。大谷は隙をついて逃げ出し、夫婦は警察に突き出そうとするが、私は事情を訊くために夫婦を座敷にあげ、これまでの大谷の悪行を知る。後日、夫婦に対して返金の目処がたったと嘘をついてしまった私は、紆余曲折あり椿屋で働くことになる。私が働いているとも知らず、性懲りも無く顔を隠して来店した大谷は、私に気付き驚くが、それからも椿屋に通い続ける。椿屋の「さっちゃん」として私の名が売れ始めたある晩、さっちゃんと大谷は2人で帰路につく。そこで大谷は「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」と心中を吐露する。またある日、さっちゃんと大谷は店で二人っきりになる。そこで大谷は、件の盗みはさっちゃんのためにしでかしたことを明かし、「人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」と弁明するが、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」とさっちゃんは応え物語は終わる。


■さっちゃんと大谷の変化

 『ヴィヨンの妻』は結局、太宰治の思想のなにを表しているのか、それは、さっちゃんが最後に語った「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という言葉に集約される。

 物語冒頭でさっちゃんは「無力な女性」という役どころを与えられていた。横暴な夫に為す術なく、赤ん坊につきっきりで働くことも叶わない。たまの仕送りだけを頼りに生活しているが、そのお金も夫の遊びに消えてしまう。しかし、椿屋で働くことになってからのさっちゃんは実に活発な女性となった。赤ん坊を椿屋の奥座敷で一人遊ばせながら、お客の下卑た洒落に対してさらに下卑た受け応えを寄越し、お銚子を運ぶ。大谷の浮気を目撃しても特段気にも留めない。そうしていると、だんだんとさっちゃんは椿屋の人気者になっていく。店は活気付き、握手を求められる。さっちゃんはそれに応えるように、髪を整え、化粧品を揃える。またある日は、電車を逃したお客を家にあげ、そこで身体を汚されることすらあった。

 他方で、椿屋の金を盗み、ナイフをチラつかせ逃げ出した大谷は横暴な夫の象徴である。女欲しさに店から店へと遊び歩き、家にはたまにしか帰らない。さっちゃんと籍を入れているわけでもないが、ちゃっかり子供はできている。あげく金を盗み逃走、しかしなお椿屋に足を運ぶ。

 物語が進みに連れて次第に活発になっていったさっちゃんとは対照的に、大谷は話とともに弱気になり、いよいよさっちゃんに心中を告白する。

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
「お仕事が、おありですから」
「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」
ヴィヨンの妻

 大谷は詩を生業にしている。自身の希死念慮を打ち明け、それについてさっちゃんに「お仕事が、おありですから」と嗜められるが、自身の作品について大谷は「人がいいと言えば、よくなるし、悪いといえば、悪くなるんです。」と持説を披露する。

 そして最後の場面で、大谷は作品が酷評されていることを新聞紙から知る。

「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
 と言いました。
ヴィヨンの妻


■男の内面と女の外面

 前提として、太宰には女性を不可解なものとして捉えている女性観がある。それは、お客に汚されたことさえも「私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました。」「そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。」とたったの二文で事実を説明している反面、大谷はこれでもかとさっちゃんに対し心情を打ち明けていることからもわかる。

(以下のnoteでは『陰火』を取り上げて太宰治の女性理解を考察した)

 つまり太宰は、思想のうち、内面的な領域を大谷に語らせ、反対に表れである外面的な領域をさっちゃんというキャラクターを通して描いている
 ではここでいう「思想」とはなにか、これはまず間違いなく、「太宰の思想」ということになる。太宰の心中の開陳が大谷を通して行われ、内面に属さない部分をさっちゃんが担っている。なぜこのようなことがいえるか、それは大谷が「弱者」であり、また太宰も「弱者」に属する作家だからだ。

(ここでいう「弱者」については、『ア、秋』を取り上げて下記のnoteで考察した)

 大谷は実際、太宰との類似がわかりやすい。小説家である太宰と詩人である大谷はともに芸術家という点では変わらない。女を取っ替え引っ替えし、飲み屋を渡り歩いているという点も太宰に一致する。希死念慮の有無は言わずもがな。

 ここで当然、一つの疑問が浮上する。大谷が太宰の生写しだとするならば、その大谷を否定する立場にあるさっちゃんとはいったい何者なのか
 つまるところさっちゃんとは、太宰の「理想」であり、思想の「語り部」である。


■ 太宰の理想としてのさっちゃん

 さっちゃんは太宰の「理想」である。それは理想の女性像という意味では“ない”。そのまま、太宰自身の理想として、さっちゃんというキャラクターが用意されている。
 なぜそう言えるか、それはさっちゃんが大谷に対するアンチテーゼとしてはたらいていることに由来する。

 大谷は最後、批評家によって自身が人非人(つまり「人でなし」)だと酷評されていることに対して弁明するが、さっちゃんはそれを「人非人でもいいじゃないの」と受容し、そこで物語が終わる。この構造を捉えると、大谷は自身の保身のために「人非人であってはならない」と一つのテーゼを提示したことになる。それに対してさっちゃんは前述したように、大谷のテーゼに対するアンチテーゼを提示してみせた
 注意しなければならないのは、ここで『ヴィヨンの妻』の物語は幕を閉じているということだ。これ以上の問答はなく、さっちゃんのアンチテーゼに対するアンチテーゼは用意されていない、ということだ。

 では、なぜ太宰はさっちゃんの口を通して自身の心中の吐露である大谷のテーゼを反駁させたのか、それは「理想に至るため」にほかならない
 ある主張(テーゼ)に反駁するという行いは、テーゼに含まれている矛盾を顕にし、真理に至るために行われる。ここで注目したいのは、『ヴィヨンの妻』は太宰の精神の表れである以上、今用意されているテーゼもアンチテーゼも、ともに太宰によって作り出されているという点だ。
 つまるところ、太宰は大谷の口からテーゼに相当する心中の吐露を行い、さっちゃんの口から自身(の思想)を理想に至らしめるためのアンチテーゼに相当する思想を語らせていることになる。


■ 私たちは、生きていさえすればいいのよ

 ここまでの考察から、大谷は太宰自身の内情を開陳しており、他方でさっちゃんは太宰を理想たらしめるためのアンチテーゼとして機能していることがわかった。では、結局のところ太宰が『ヴィヨンの妻』を通して伝えたかった理想であるところの思想とはなんだったのか。
 それは、さっちゃんの「私たちは、生きていさえすればいいのよ」という言葉から考察することができる。

 “生きていさえすればいい”とはどういうことだろうか。これを希死念慮を開陳した大谷への慰めや、自殺の制止のために吐いたセリフと読むのは誤りである。

 椿屋で働く以前のさっちゃんは誰の目から見ても明らかに惨めな暮らしをしていたが、椿屋で働き出したからといって全てが順風満帆だったというわけではない。さっちゃんは椿屋で働く中で、お客のほとんどが犯罪者であることに気づく。また、高貴な婦人に酒だといって卸された商品がただの水でまんまと騙されたこともあった。極め付けにはお客の一人に手込めにされてしまう。しかしさっちゃんは世俗の穢れを知り、下卑た言葉を使うなど自身もだんだんと汚れていく中でもなお活発で、爽やかである。為す術なかった大谷に対しても、椿屋では対等かそれ以上の立場で言葉を交わすようになった。

 いったい何がさっちゃんをこうさせたのか、それは「魂の操縦桿を自分で握ったから」、具体的に言えば「無知から脱却したから」に他ならない。

 椿屋で働く以前の、まだ名前も与えられていない私は、選択肢が用意されていなかった。たまの仕送りを待ち、赤ん坊の世話をするだけの毎日。仕送りから大谷の遊ぶ金を引いたわずかばかりの残り金と、赤ん坊の養育費とのバランスをとることに行動の制約を受け、他の事はなにもままならなかった。
 そんな中、夫・大谷の強盗という大事件を契機に「椿屋で働く」という新たな選択肢が設けられた。それは、椿屋の夫妻と会話する中で、互いに抱いている被害者意識が3人の距離を縮めた結果、赤ん坊を椿屋に連れ込むことを許されたことによる制約の一つの突破と、返すあてのない金を要求されたことに対するどうしようもなさ、言い換えれば「開き直り」が与えた選択肢だった。

「選択肢から選び取る」という行動には当然ながら「意志」を要する。例えば大学を卒業し、どこも内定が取れないまま至った無職と、大学院に受かり、また内定も取れている状態で、それでもなお選んだ無職では、「無職」という状態こそ同じではあるが、そこに至るまでに経由した思考の積み重ねと、意志の強さは全く異なる。

 椿屋で働く中で、紆余曲折あり金はとっくに返せてしまったさっちゃんは、働くことを辞め、元の貧困暮らしに戻ることができたはずだが、彼女はそうしなかった。たとえ世間の汚さを突きつけられたとしても、身体を汚されても、彼女は汚い世界で働くことを選んだ。それは、彼女がはじめて意志をもって自分の人生を選択することができたからだ。周囲の誰の指図も制約も受けずに、はじめて自分の魂に従った決断を下すことができたからだ。つまり、「魂の操縦桿を自分で握った」からこそ、彼女はこれほどまでに清々しい

 『ヴィヨンの妻』だけではわかりにくいので、ここでもう二つの小説を紹介したいと思う。

 一つは、ドストエフスキーの『地下室の手記』だ。

ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった──意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。
地下室の手記(江川卓訳)

 『地下室の手記』の主人公は役人をしていたがまとまった金が入ったのをきっかけに地下室にこもり世俗との関わりを絶って手記を記す。
 彼が言う「何者」とはいったいなにか。仮にも役人でしかもそれなりのポストについていた彼が何者にもなれなかったと悲観するのはなぜか。それは彼が「魂の操縦桿を握れなかった」からに他ならない。学校を出て、なし崩し的についた職業で、しかもまとまった金が入ると途端に縁を切ってしまうような職に就いたことを「何者かになった」とは言わない。なぜならここには彼の意志も、決断も含まれておらず、ただ、自然に任せて漂うなかの一つの通過点にすぎないからだ。

 注目すべきは、「英雄」や「正直者」とならんで「意地悪」や「虫けら」といったネガティブなイメージを含む言葉がある混じっていることだ。つまり、ドストエフスキーが語らせているところの彼は、意志を伴った選択ならその結果、「意地悪」や「虫けら」と成っても構わないと考えている。それらが世間から疎まれ、非難されようとも、彼が、彼の魂に従って下した決断だからだ。

 もう一冊は私の人生のバイブル、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』だ。少し長いが、極めて重要なことを言っているので、思い切って引用する。

ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。──各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり、任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだ。(中略)目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介さず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。(中略)各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終わろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終わろうと──それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった。
デミアン(高橋健二訳)

 『デミアン』では『地下室の手記』よりもさらに強い制約が課されている。それは、たとえ自分の判断であっても「自分で選んだり書き改めたり、任意に管理してよいような役目は存在しない」と悟っているからだ(しかし、実際のところ『地下室の手記』においても同程度に強い使命に対する制約が課せられているが、ここでは深入りしない)。『デミアン』において、たった一つの肝要事とは「任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくこと」であり、それ以外の判断を「すべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安」だとして退ける。
 つまり『デミアン』(つまりヘッセ)は、たった一つ自分に与えられた使命を自覚し、世人や環境、倫理や法にすらも左右されることなく、その運命を生き抜く事を啓蒙している。そして、ヘッセのいう生き方をできなかった人物こそ、紛れもない『地下室の手記』の執筆者である。特に「詩人として、あるいは気ちがいとして終わろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終わろうと──それは肝要事ではなかった。」と記している部分は『地下室の手記』と酷似している。


 さて、『ヴィヨンの妻』へと戻ってこよう。『地下室の手記』『デミアン』を踏まえてさっちゃんを再考すると、家に赤ん坊と二人でいた頃の私は、各人に与えられた一つの使命を自覚しておらず、大谷と赤ん坊に対する気遣いのみに終始していたことがわかる。椿屋で働き出した彼女は、犯罪者に料理を振る舞っているという点で「正直者」でもなければ、下卑た冗談を返している点で「上品」でもない。しかし、「正直者」や「上品」になることが肝要なのではない肝要なのは、「任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくこと」なのだ。

 最後の場面で大谷は、自身に正直であろうとしてさっちゃんに洗いざらい内心をぶちまけた。卑怯者として終わらないために弁明してみせた。しかし、「私」から椿屋の「さっちゃん」と変わった彼女は既にたった一つの運命を見出している。魂の操縦桿を自分自身の手で握っている。だからこそ、大谷を否定し、こう言ってのけるのだ。

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
ヴィヨンの妻

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