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【太宰治】「芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ」【ア、秋】

太宰文学の中ではあまり注目されませんが『ア、秋』がかなり好きです。独自解釈を交えてお勧めします。


■概要

  • 作品名:ア、秋

  • 作者:太宰治

  • 初出:若草

  • 出版年:1939年


■あらすじ

主人公は注文に応えて詩を作る本職の詩人である。いつどんな注文にも応えられるように、詩材をまとめたノートを用意している。本作は、そのノートを引いて振り返っている場面を描いている。


■芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ

ノートは50音順に詩材がまとめられており、例えば「秋について」と注文がくれば「ア」の部の引き出しを開き、その中にある「秋」のノートを取り出す。なかには

トンボ。スキトオル。

コスモス、無残。

など、詩人が感じた一瞬の情念が書き留められている。中には秋に会話している内容を盗み聞きして、そのまま書き写したようなものまで。

ごたごたと詩材を紹介をし、最後はこんな言葉を紹介して終わる。

芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ。

「芸術家は、いつも、弱者の友であった筈なのに。」

太宰はいつも(というと言いすぎだが)弱者の側に属する文章を書いている。それは太宰自身が、津軽の大地主の家系に生まれたにも関わらず、共産主義運動にのめりこみ、また脱落し、パビナール中毒となり芥川賞にも敗れた怒涛の生涯をおくったからに他ならない。

「純文学」と「大衆文学」という言葉があるように、作品はいつも精神性が二分される。そして『作品』とは、我々「見る側」の視点から捉えられた言葉であり、その捉えられたものこそまさしく『芸術』そのものである。

芸術は芸術家の精神性の現れである。「純文学」に「純」という文字が充てられる以上、それは作家の純粋な精神性を意味し、大衆の精神性に寄り添った大衆文学と比較して構造上必然的に芸術性が上回る。

時に芸術家は孤独である。なぜなら精神性とは本来、その人本人だけのものであり、全く同じ精神性を宿すということは、同じ人は2人といないという事実を作り出す。極めて純粋な精神性の現れである純文学は、その非-共有性に依って、たとえ質という点において他を突き放そうとも大衆に理解され得ない。大衆の精神性を近似し、同じ人を集めた大衆文学に対して、その孤独はより深いものとなる。

純粋な精神は孤独を生み、また孤独は弱者を生む。特異な精神性を持ち合わせたにも関わらず、芸術家としての才をもたなかった彼らは、芸術家に救済を求めることしか叶わない。
ヘルマン・ヘッセが『デミアン』で語るところの、"大衆の理想への退却"を果たすことのできない彼らは、精神性の住処を文学だったり絵画だったり音楽だったり、そういった芸術に求める。

そんな芸術家が、大衆の理想へと退却した時、自らの精神性をかなぐり捨てて、『芸術』と書かれた看板だけを背負って大衆の待つ元へと下って行ったとき、残された弱者はこう呟くことしかできない。


芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈ナノニ。

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