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学術論文『三好にまつわる諸々事(エトセトラ)』から派生する其他事項(エトセトラ)

1.東京大学史料編纂所研究紀要第31号掲載論文、村井祐樹『三好にまつわる諸々事(エトセトラ)―『戦国遺文 三好氏編』より―』

 既に一年以上前のことになるが、東京大学史料編纂所研究紀要第31号に東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授による『三好にまつわる諸々事(エトセトラ)―『戦国遺文 三好氏編』より―』という論文が掲載された。半年以上も前になるが、情報を得た時点では図書館に入っている様子が無く、他にもチェックしておきたい論文が掲載されていることもあり、史料編纂所から直接取り寄せて購入した。

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写真 : 東京大学史料編纂所研究紀要第31号の表紙

 ここで紹介することになるのは、村井祐樹准教授の『三好にまつわる諸々事―『戦国遺文 三好氏編』より―』という論文である。この論文は、三好氏に関する文書集である、天野忠幸編『戰國遺文 三好氏編』(東京堂出版 第1巻2013 第2巻2014 第3巻2015)所収の史料についての考察で、主に2つの点が検討されており、一つは「一 三好長慶の死去にまつわる史料」、もう一つは「二 十河一存の和泉国支配にまつわる史料」となっている。

2.「一 三好長慶の死去にまつわる史料」の部分について

2-1.松永久秀書状と三好長慶死去直前の状況

 「一 三好長慶の死去にまつわる史料」の概略は次のようなもの。『戰國遺文 三好氏編』所収の6月22日付と6月23日付の二通の松永久秀書状(『東京大学史料編纂所架蔵影写本『柳生文書』(『遺文』八三九・八九四)』)が、従来は永禄6年に比定され三好長慶の嫡男慶興の死没に関わるものとされてきたが、内容を検討した結果、永禄7年に比定され長慶病没直前の周囲の状況・対応を具体的に示す、極めて貴重な文書であったことが判明した、というもの。
 三好義興は永禄6年8月に、長慶は永禄7年7月に病没しているので、6月に出された久秀の書状がどちらの年になるのかで、それぞれの時点で何が起きていたのか、話が変わってくる。論文の分析を見てみると、当時の状況は、義興は祈祷が依頼されるなど公表された急性の病、長慶の病は長期のもので秘匿され、死去は三回忌まで公表されなかった。久秀の書状は、ある程度長期の病である殿の病状変化についての報告、殿の死や跡の相続について覚悟すべき状況にあること、情報秘匿に注意すべきこと、といった内容であり、義興ではなく長慶についてのものとみるべきである、と結論付けられている。この結論については、私個人としても異論は無い。また、その後に出された他の機関による研究発表の中でも、この結論が引用されている。詳しくは『クローズアップ飯盛城2021調査報告会資料集(大東市産業・文化部生涯学習課 2021)』p16に記載されており、独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所の全国遺跡報告総覧で閲覧可能。
クローズアップ飯盛城2021調査報告会資料集 - 全国遺跡報告総覧

 こういう事がよく起きるので、歴史学の研究成果というものを参考にする側にとっては、最新の研究とか新しい学説といったものは、ある程度議論が尽くされてから取り入れるのが良さそうである。何年かは様子を見た方がいいかもしれない。5年、あるいは10年ぐらいか、はっきりしたことは言えないのではあるが。

2-2.三好義興の病状について

 歴史学に直接の関係は無いが、気になった点があるのでここで検討しておきたい。論文のp5に「以上をまとめると、芥川山城にいた義興は六月二十日に「傷寒(=チフスか)により「高熱」が出たが、道三の処方した薬が効いたようで程なく回復した、となろう。」という記述がある。三好慶興がかかった病気について、病名の推測がなされているが、誤解を招きかねない危険があると思われる記述になっている。「傷寒」について、漢方医学の大家である大塚敬節著『新装版 漢方医学(創元社 2001)』の記述には、こう書かれている。
「『傷寒論』では、疾病を重篤で変化の激しい傷寒(今日のチフスのような)と、良性で変化の少ない中風(感冒のような)とに分け、さらに、その変化の過程を三陰三陽という範疇カテゴリーの中に入れて、その治療方針をきめる手段としている。」
 この中でチフスは一例として挙げられているのだが、他の参考文献に転載されるなどして、それを参照した際に誤解が起きたかと思われる。「傷寒」は古代医学における病気の分類上の項目を指す言葉なので、現代医学で使用される特定の病名を指す言葉ではないことに注意が必要となる。文書にある三好慶興がかかった「傷寒」は本来、症状の詳しい記載が無いと、現代使用される病名を推測することは出来ない。昔から色々と誤解される話が多かった三好氏だが、ここで不用意に三好慶興がチフスにかかったとまた誰かに誤解されてしまうと、三好氏に関する誤った解釈が新たに伝播することになりかねないので、この文書内の言葉の解読は、より慎重に行われる必要があると思われる。

2-3.論文から派生する新たな検討点1-三好長慶に対する尊称について

 論文の中では論点になっていない事柄があるのだが、久秀の6月23日付書状にある「殿之御跡まてのためににて候ニ、」という言葉について、気付いたことを一つ検討してみたい。
 三好長慶の呼び方について、拙著『河内の国飯盛山追想記』の中で、「人前では御屋形様などと呼ばなくてはならない偉い人じゃ」という台詞を書いたのだが、どうやら長慶の呼び方は御屋形様ではなかったようである。今谷明氏も『戦国三好一族』(新人物往来社 (1985)昭和六十年)のp154で山科言継の書状を現代語訳する際に「松尾社と四ヶ郷の水争いにつきましては、屋形様(長慶)の方で裁判にかけられるようにうかがっています。私共が思いますに、隣郷同志のことですから、両社の主張の中間を調停案とし、穏便に済まして頂ければ有難く存じます。私共が干渉することについて如何かと思われる向きもあるかと存じますが、両郷にそれぞれ縁故もあり、事情も聞いているものですから、このようにお願いする次第です。この旨を筑前守(長慶)殿に伝達して下されば有難い。なお詳細は、小泉秀清、中路若狭守の両名から申し上げます。謹言。七月十六日 言継 宜忠 鳥養兵部丞殿」といったように、三好長慶のことを「屋形様」と表現している。言継卿記天文二十二年七月十六日部分にある書状写しは「松尾社家與四ヶ郷用水総論之儀、既可及糾明之由候、隣郷之事候間、以中分落居候様候者可然候歟、両人之申事、雖如何之様候、左右方別而存候子細候間如此候、此由筑前へ被申、可為無事之段専一候、尚小泉山城守、中路若狭守可被申候、謹言、七月十六日 言継 宜忠 鳥養兵部丞殿」となっており、前の部分を見ても「先之中御門内田中隼人佐、此方澤路彦九郎、桂庄之中路美乃守、幷郡之中路若狭守所へ中分之事申遣之處、同心之由返答了、然者今日芥川三好方へ罷下、松尾衆申留了、」原文には屋形様という言葉は出てこない。しかし当時の書状に屋形様という言葉が使われないということはなく、『三好康長書状写(『遺文』一五二〇)』(元亀元年十月九日)に「御屋形様(三好長治)御存分在之事候」とあり、別の話のものとしては『三好為三書状(切紙)(『遺文』一五二四)』(元亀元年十月十三日)に「御屋形様へ重々懇候事、」「御屋形様へハ池田跡為替地、河内半国・堂嶋・堺南北・丹州一跡前へ遣候、」とあるように、御屋形様という言葉は実際にあり、書状にも御屋形様と書かれることが分かる。三好長治が「御屋形様」と呼ばれていたらしいということも気になるが、それは機会があれば検討することにして、屋形の呼称についての話に戻る。
 三好長慶の呼び方は、死去直前に出された松永久秀の書状に「殿」とあることからみて、最期の時に至るまで「殿」であったらしい。彼の周囲で屋形と呼ばれる人物は、「淀屋形(厳助往年記永禄六年十二月廿一日)」という記述がある細川京兆家の氏綱が挙げられる。細川晴元の陣営を離れ氏綱を主君として以来、官位や室町幕府の役職等に関して、三好長慶は細川京兆家を越える地位に就かなかったことは知られている。こうした点や、足利義輝と対立した際に朽木へ逃げた義輝を追撃しなかったこと等から三好長慶は柔弱、或いは手ぬるいといった評価を受けることがある。しかしながら、例えば『續応仁後記』巻六には細川晴元の子昭元を和睦の契約通りに元服させた場面に「寔以有道ノ挙動神妙ナル事也トテ皆人是ヲ感シ合ヘリ」という、長慶の義理堅さを示すようなエピソードがある。このような昔の人達の評価は、三好長慶という人物が、いつの頃からか付いたイメージのような下剋上によって室町幕府を崩壊させた、といった梟雄ではなく、室町幕府の枠内で礼式を重んじた、律儀な人物であったことを示していると言えよう。長慶が律儀であるという評価があることについては、以前の記事、
日本史のいわゆる最新の研究成果に関する問題点と、織田信長や三好長慶の再評価

で述べたことがある。
 『三好にまつわる諸々事(エトセトラ)』というこの論文、年代比定のために三好長慶の死の直前に関する文書が分析されたことが、長慶の律儀な人柄も示してくれたという、思わぬ効果をもたらした論文なのではないかという気がしている。

3.「二 十河一存の和泉国支配にまつわる史料」の部分について

3-1. 香西元成・三好政生(宗渭)連署書状の年代比定

 論文の後半部分「二 十河一存の和泉国支配にまつわる史料」でまず検討されているのは、『香西元成・三好政生(宗渭)連署書状(『遺文』二一一八)』であるが、この二人、足利義輝が朽木に逃亡中の頃に細川晴元陣営から出された文書によく出てくる組み合わせである。三好と香西の組み合わせは、後に弟や子の代になっても関係が続いていたようで、『信長公記』にも元亀元年に「去程に 三好為三 香西両人ハ御身方ニ参」という野田・福島の戦いの記述がある。
 細川晴元勢にいる三好宗渭と香西元成から波多野元秀へ出された書状で、河内の勢力、泉州の松浦まつら氏、晴元勢と紀州の根来寺、三好勢の十河一存の動きといった情勢が記されているこの文書が、論文では永禄元年12月9日に比定されると結論付けられている。
 論文では、十河一存が永禄元年に岸和田城にいたことを示す根拠が、先行研究では『細川両家記』永禄元年九月六日条の記述のみであるとし、さらに先の方で「本章冒頭で述べたように、弘治年間の松浦氏自体の動向は不明である。ただ天文二十年段階までは松浦氏が長慶方であったことが確実だとすると、その後松浦守と、和泉に影響力を持っていた河内の遊佐長教(長慶方)がほぼ同時期に没したことで、岸和田を中心とした泉南地域は混乱に陥り、守亡き後の松浦氏は反長慶方に転じたと推測できないであろうか。そう考えることで、永禄初年の長慶方による和泉侵攻=松浦氏が反長慶方にあったことの説明がつくであろう。」との推測がなされている。また、松浦万満宛長慶書状の「泉州事、従養父周防守代幷一存被申付以筋目、」の文言について、「長慶が、松浦家を継いだ一存の息万満に、養父松浦(岸和田)周防守代と実父十河一存の申し付けた通りに和泉を治めるよう、命じた文書である。」「松浦家中は、この時点で和泉支配の柱石たる周防守盛・一存二人がほぼ同時に不在となってしまうという危機的状況に陥っていたのである。」との説明がなされている。

3-2.岸和田城周辺での三好氏と松浦氏の動き

 これらの記述の先行研究として、各地の自治体の市史等については『岸和田市史』以外は挙げられていない。和泉国と松浦氏については、地方史までまたがる分野になることもあり、岸和田市周辺自治体の堺市、貝塚市、高石市、泉大津市、忠岡町あたりの市史や、『細川両家記』の他にも『足利季世記』、『政基公旅引付』等の内容を加えて検討してみると、資料ごとに出てくる情報が錯綜している部分もあって、手頃に纏まった研究が無いのが現状であろうかと思われる。私自身の地元ということもあるので、天文、弘治、永禄頃の岸和田城周辺の様子について、追加事項や修正点等の情報を付け加えながら、論文中で検討された香西元成・三好政生(宗渭)連署書状の内容について、ここでもう一度改めて検討してみようと思う。
 ネット上で閲覧可能な文書は、大阪府貝塚市公式サイトの文化財のページにある、刊行物案内の中から幾つか挙げることが出来る。

松浦守について

根福寺城跡について

 三好氏支配下期の岸和田城周辺に関する事項を大まかに並べてみると、次のようになる。
 和泉国は上守護と下守護の二人体制、守護所は堺や泉大津辺り。
 和泉国守護の内衆岸和田氏は、楠木氏の一族である和田みぎた氏を祖とする岸和田城主。
 和泉国守護代の松浦氏は、肥前の松浦氏を祖とし、拠点は堺。寺田氏が家老。
 和泉両守護の時期から、紀州根来寺勢力による泉州地方への進出が盛んで、和泉守護側との衝突が何度も起きていた。
天文4(1535)年
 松浦守が現在の貝塚市内に野田山城を築く。
天文12(1543)年
 野田山城が根来寺の支配下になり根福寺城こんぷくじじょうに改称。
天文15年
 12月20日、足利義晴が将軍職を義藤(義輝)に譲る。
天文16(1547)年
 舎利寺の戦いで細川晴元方の三好勢が細川氏綱方に大勝。松浦守は三好勢と共に参戦。
天文18(1549)年
 三好長慶が細川晴元から氏綱に主君を変え、江口の戦いで一族の三好政長を討つ。岸和田兵衛大輔が政長・晴元側に付き、松浦守が長慶・氏綱方に付く。晴元が足利義晴と共に近江へ逃亡。
→岸和田城は三好方の城となる。
天文19(1550)年
 5月4日、足利義晴没。
 11月21日、三好長慶が将軍足利義藤(義輝)の籠る中尾城へ進撃。義藤が近江へ逃亡。
天文20(1551)年
 等持寺の戦いで三好長慶の武将松永久秀・長頼が、丹波を拠点とする三好政勝・香西元成・岸和田可也ら細川晴元方を破る。
天文21(1552)年
 足利義輝が三好長慶と和睦して帰京。細川氏綱が細川京兆家を継ぎ、晴元が若狭へ出奔。晴元側が丹波の波多野氏と共に八上城を巡って三好方と戦う。
天文22(1553)年
 足利義輝が和睦を破棄し細川晴元と結んで霊山城に籠城。三好長慶が足利
(義輝)の籠る霊山城を攻撃。義藤(義輝)は近江の朽木へ逃亡。
天文末〜弘治年間
 松浦守が死亡。三好方は岸和田周防守を松浦の後継者とし、十河一存の子を松浦万満(孫八郎、光)として松浦家の養子に入れ、十河一存が後見人となり岸和田城を和泉国支配の拠点とする。松浦孫五郎(虎)・寺田又右衛門・寺田安太夫(松浦宗清)らの一族が反発。
永禄元(1558)年
 5月から、細川晴元は足利義輝を擁して近江の坂本を拠点としていたが、近江の六角氏の仲介によって義輝と三好長慶との和睦交渉が始まる。
 8月18日、岸和田城の十河一存が木積蛇谷城(現在の貝塚市内)の松浦孫五郎を攻めて失敗。続いて根来衆が積善寺城(現在の貝塚市内)を築き、松浦一族の三好反対派が積善寺城に入る。
 10月23日、三好軍が根福寺城を攻めて失敗。
 11月27日、義輝と三好長慶との和睦が成立し、義輝が帰京、相国寺に入る。
 11月30日、河内守護畠山高政が守護代安見宗房と争って出奔し、和泉堺を経て紀伊に行く。
 12月18日、三好長慶、松永久秀が帰国。次いで三好実休、安宅冬康の軍勢が四国、淡路へ帰国して三好方の京都周辺での軍事作戦が終了。
永禄2(1559)年
 5月、根来衆が岸和田へ出兵。十河一存が迎え撃つが敗北。畠山高政の要請で三好長慶が河内に出兵、根来衆の後ろ楯でもある安見宗房を追放し、高政を河内に戻す。
永禄3(1560)年
 畠山高政が安見宗房を復帰させたため三好長慶が河内に出兵。高政と宗房が逃げ、河内が三好家の支配下に入る。三好長慶が飯盛城、三好実休が高屋城を居城とする。
永禄4(1561)年
 4月23日、十河一存が病死。
 7月、近江の六角氏が京都へ、紀伊の畠山高政と根来衆が岸和田へ出兵。
永禄5(1562)年
 3月5日、久米田の戦いで三好実休が討死。
 5月14日、教興寺の戦いで三好軍が畠山・根来軍に大勝。
 以後、河内から畠山の勢力は駆逐され、根来衆は三好家と和睦。

3-3.永禄元年末頃の情勢

 永禄元年末の時点では、京都周辺の情勢に軍事的な緊張関係は見られないが、香西元成・三好政生(宗渭)連署書状の内容から、細川晴元勢は三好勢との間で合戦の準備を進められていたと思われる。「従若州代物遅々」とあるので、晴元は前回の和睦の際に若狭へ出奔した時と同様に、若狭武田氏に応援を頼んだようである。さらに「弥松浦堅固之儀」とあって松浦氏と十河一存との間に対立があり、「従河州別而被加強力」とあって河内が晴元方と協力関係にあることから、書状の内容は論文の結論通り、永禄元年の状況を表していると言えるであろう。ちなみにその後、若狭武田氏に目立った動きも見当たらず、細川晴元や波多野氏と三好方との間で大きな合戦が起きた様子も無く、程なくして晴元は『続応仁後記』の義輝帰京時の表現にある「細川晴元入道ハ又々流浪ノ閑人ト成果潜居セシム誠ニ栄枯一時ニ変ジ」といった状態になったものと思われる。
 以上の諸事情を考慮すると、論文にある、
「この編年結果から、永禄三年前半に松浦氏が長慶方に降り、同年十一月頃に一存が岸和田城に入ったこと、およびその前後の状況が明確になったと言えよう。
 すなわち本(史料⑧)は、松浦氏が長慶の軍門に降る以前の政治状況を示し、当該期の十河一存の動向を明らかにでき、かつ和泉国関係文書を位置づけ直す上で鍵になる、重要な文書なのであった。」
という結論に関しては若干修正がなされてもよいかと思われるが、「十河一存の動向を明らかにでき、かつ和泉国関係文書を位置づけ直す上で鍵になる、重要な文書なのであった。」という部分については、まさにその通りと言うべきであろうと思われる。
 書状の年代比定が後ろになったわけではないため、論文のこれ以降の部分については、ここでは検討しない。

3-4.論文から派生する新たな検討点2-岸和田古城・岸和田新城と十河一存

 この論文のテーマとは別の話になるが、香西元成・三好政生連署状の中に興味深い事が書いてあるので、検討してみたいと思う。
 書状には、松浦方に根来衆が協力することが書かれた上で、「十民調儀者、相城ヲ付度存分ニ候」「就其根来寺惣分談合者、十河就相築城者、一山打移、以一戦可相果由候」という文言が書かれている。『武者言葉大概』という書物に「一 付城をハ付ると云、向城は築くと云」という一文があるが、書状には、十河一存が相城を付けたがっている、また、一存が城を築く場合への対処についての記述がある。一存の計画が、攻城用或いは防御用の付城を付けるのか、攻城用の向城を築くのか、相城という言葉なのではっきりとはしない。しかし、永禄元年末の状況では、松浦氏と根来衆の複数の城と対峙していたため、攻撃にも防御にも対応出来る必要があった。永禄元年には三好方が攻撃し、2年には岸和田城は根来衆方の攻撃を受けている。書状には、一存が城を築く場合には根来寺が一山挙げて阻止するという方針が書かれていることから、一存によるかなり大掛かりな築城計画があったとみられる。その当時に和泉国で三好家による大規模な築城があったとすれば、該当するのは岸和田新城であろう。
 岸和田城は、岸和田氏が築いた岸和田古城から、三好氏の時代に岸和田新城に移り、十河一存の死後安宅冬康が入り、三好実休や篠原長房によって増強され、その後豊臣秀吉の時代に中村一氏が増強し、江戸時代に入って岡部氏の居城となって明治維新を迎え、現在に至る。今までのところ、いつ岸和田古城から岸和田新城に移ったのかがはっきりしていなかったが、この史料から、十河一存の築城計画があった永禄元年から一存が病死した永禄4年の間と推測し得るのではないか。論文が史料の年代比定をしてくれたおかげで、もう一つ他の謎を解く鍵が出来たのではないだろうか。この論文は、和泉国における、中世から近世にかけての重要な問題の解決に示唆を与えてくれる、思わぬ効果を持った論文と言えるかもしれない。

4.三好氏研究の現状と問題点

4-1三好氏関連史料に関する問題

 個人的に、より大きな問題点があると感じるのは、論考のメインとなる香西元成と三好政生の連署状に関する部分ではなく、関連する文書についての論考の部分である。論文では、この文書が検討された後、
「ここまでの推移が問題なければ、先行研究で利用されている次の無年号文書の年代も検討し直す必要が出てくる。
A九月廿八日付法隆寺印清書状(『遺文』参考71)
B拾月十三日付法隆寺印清書状(『遺文』参考72)
C十一月二十一日付つぼね消息(『遺文』参考73)
D十二月十二日付根来寺快栄書状(『遺文』参考75)
の四点である。これら四通は、部分部分がつまみ食い的に使われているのみで、実はこれまで適切に年代比定がなされていない。」
という問題提起がなされ、結論として4つの文書が永禄3年と比定し得るとされている。ここで気になるのは、文書の年代比定に関する部分ではなく、「これら四通は、部分部分がつまみ食い的に使われているのみで、実はこれまで適切に年代比定がなされていない」という状況が指摘されていることである。

4-2.簡単な三好氏研究史と現在の状況

 三好氏についての研究は、まず昭和43年に徳島の郷土史家長江正一氏が吉川弘文館の人物叢書のうちの一冊『三好長慶』を著した。今谷明博士は、室町幕府や三好氏の学術研究を始めた当時、この本が「唯一の導き手」「他に見るべき参考書とて、ほとんどなかった」と後に書いておられる。この本は、三好氏を研究する際に参照される基礎的な史料が網羅されており、三好氏研究の際に手始めとして今もなお最適な一冊と言える文献となっている。その後、今谷氏の論文『細川三好体制研究序説:室町幕府の解体過程』(1973) や『室町幕府最末期の京都支配:文書発給を通じて見た三好政権』(1975)等が学術書『室町幕府解体過程の研究』(1985)として纏められた。今谷氏の一般向けの書籍としては新人物往来社から『戦国三好一族』が1985年に出され、この本は2007年に洋泉社MC新書『戦国三好一族:天下に号令した戦国大名』として復刻されたが、現在は両方とも絶版状態になっているのが惜しまれる。
 その後、中世史の学術研究の分野で今谷氏の説が検討される過程で、東京大学史料編纂所の末柄豊博士による細川氏の研究をはじめとして、室町幕府に関する研究が活発となっていった。あるいは山田康弘博士による戦国期の足利将軍家に関する研究などで、三好氏に関する記述がみられたりする。今谷明氏の論文のタイトルにあるように、今谷氏が室町幕府を研究する上で三好氏に着目して研究を進めたという経緯があったためか、学術的に日本中世史の分野では室町幕府の研究が主に行われている。個々の戦国大名に関しては総じて言えることかもしれないが、中央政権の中で活動した三好氏も、地方史、郷土史といったカテゴリーで調査が行われているように見受けられる。三好長慶や三好氏が話題になる場合には、町おこしや地域活性化といった場面で出てくることが多い。日本史の話題として三好氏が出てくる場合、一般向けに織田信長をネガティブに語るためのネタとして、信長の前の天下人である三好長慶が持ち出されるといった使われ方になっているのが現状だと思われる。三好氏をテーマに学術研究を行う人は多くない状況にあり、研究者の数が足りていない状況が、村井准教授の指摘するように、関連史料が「部分部分がつまみ食い的に使われているのみ」であったり、「実はこれまで適切に年代比定がなされていない」という状態がそのままになったりする、残念な状態の原因となってしまう。

4-3.『戰國遺文 三好氏編』の注意点

 ちなみに村井准教授は、近江六角氏が専門である。論文で三好氏についての検討が行われたのは、六角氏の研究に関係した文書を調べる中で、三好の名前が出てきたことが元になったようである。論文では、『遺文』所収の文書の文言に修正を必要とする部分があることが指摘されている。論文中に引用されている香西元成と三好政生の連署書状の本文中には「従河州別而被加強力」の「河州」の部分に波線で傍線が引かれていて、文書の最後に註(16)が付いている。註の内容は、
「傍線の部分が『遺文』では「江州」とあったので、六角氏関係かと思ったのだが、写真を確認すると「河州」すなわち河内関係で六角氏とは何の関係もない文書であった。」
というもの。
 また、論文の「おわりに」の部分で史料⑬として取り上げられた『遺文』七六七の文書について、
「これは松永久秀から奈良の衆徒と思われる平等坊四郎なる人物に充てられた文書である。『遺文』では一行目が、「草山表(=丹波)」となっているが、「東山表」が正しく、六角勢が近江から京都東山に出兵してきたことを報じていて、永禄四年で比定されている他の文書・記録と矛盾しない。六角氏が丹波に攻め入ったことはない。」
との指摘と文言の修正が行われている。
 『戰國遺文 三好氏編』は第3巻に、第1巻と第2巻所収文書の正誤表があり、多数の訂正が載っている。第3巻所収分に関しては不明。このため、『遺文』を参照する際には、手元に第3巻が必要となる。論文の中で村井准教授によって行われた所収文書の訂正は正誤表にはなく、新たに見付かったものと思われる。
 使用上の注意点が若干あるものの、三好氏関連文書の集成として、『戰國遺文 三好氏編』は一次史料が大量に収められた史料集となっている。村井准教授は「『遺文』には丁寧に読んでいけば、知られていない事実を発見することのできる文書が、数多く収められているのである。」と論文を締め括っておられる。最後になるが、私からも、用いる際に気を付けるべき点があることも念頭に置きつつ『戰國遺文 三好氏編』を有効活用して頂きたいと付け加えたいと思う。

自著紹介

 三好長慶や三好にまつわる諸々の話も交えながら、戦国全史を描いた歴史小説です。上記の文中で指摘しましたが、今回、三好長慶は尊称が最期の時まで御屋形様にならず殿だったという、小説のセリフを一つ修正する必要があるかもしれないという新たな発見がありました。江戸時代から長らく、三好長慶は松永久秀とセットで、足利将軍を傀儡にして室町幕府を牛耳った下剋上の逆臣、将軍家に対する謀反人主従というイメージで語られてきました。長江正一氏による律義者との評価が出た後、今谷明博士による三好政権の評価があり、最近は今谷説を強化したような形で下剋上によって室町幕府を倒した革新的人物という説明がなされることがあり、評価を下剋上に逆戻りさせる動きもあるようです。しかし、三好長慶の生涯を眺めてみると下剋上によって何かをしようとする意識は感じられない、というのが、小説の原稿執筆時も今も私の個人的な印象です。細川京兆家執事という曾祖父之長以来の立場を守り通そうとした控えめな態度が、史料の上からも確認出来るのではないかと、改めて考えさせられました。

河内の国飯盛山追想記
阿牧次郎 著
アメージング出版 刊
¥1,518
ISBN-10 : 4910180745
ISBN-13 : 9784910180748

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