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わかるとわからない間に私はいる

自分がわからない・わかりたい

世の中、分かること、理解出来ることが増えてくると楽しい。

自分自身の理解に対しても、同じことが言えると思う。
自分と向き合って、自分はこう言う人間なんだ、こんな一面があるんだ、だからこんな行動をしたのか、と分かると、謎解きが出来たようで楽しい。
自分のことがよりよくわかると、わからないことへの不安が減って、自信も出てくる気がする。だから一層自分を知りたくなる。

ではこの作業のゴールはどこだろう?

ふと思った。
いつか自分を完璧に理解したと言える日が来るのだろうか?

ふとこんなことを思った理由…

それは、情報溢れる世の中で、情報に溺れそうになりながらも、問いに対する、これぞ!という答えを多くの人が探し求めている空気を感じるからだ。

自分探しをしてあれこれ答えを探し求めているときも同じ。
少なくとも私は、自分理解を早くしたくて、日々世の中の情報を追っている時があった。
でも、今思えば、必死に考えているようでいて、実はその逆。むしろ思考停止していた、と思う。自己理解のいっぱい詰まった箱のマスターキーみたいなものを自分の外側に探し求めているような感じだったと思う。

ここ10年ぐらいだろうか?  世の中は発達ブームだ。

別に対人援助の業界にいなくても、一般の人たちの間でADHDやらアスペルガーという言葉や知識はかなり知られるようになった。

私ってアスペルガーだった、あの人はADHDだった、とした途端に全てを悟る。確かに、発達の視点で捉えると色々見えてきて、目の前で起こっていること、目の前の人のことがすっかりわかった気になれることがある。

確かにそれらは答えのひとつだろう。
でもそこにどんな価値をもたせるかも解釈するかも、どう扱うかさえも、いまを生きる人たちが決めていいはず。

なまじこういった情報を専門知識として持っていると、絶対解を得たかのようになることがある。
私自身は、ここにはいつもあえてクエスチョンマークをつけながら過ごしている。

自己存在の把握は影踏みのよう


唐突にも、小さい頃影踏みをしたときの記憶がふと湧いてきた。

今の子どもは影踏みって知っているだろうか?やることがあるだろうか?

これが自分の影、と見つけた瞬間、思っ切り踏みに行く。
踏んだ!と踏んだ足を離して自分の体を起こした途端、今だ踏まれていない影が視界の端に見える。

自己理解って、まるで自分の影を踏む作業みたいだ。
そう思った。

自分という存在がある以上、存在はどこかに反映されて自分でもそれなりに投影されたものが見えることがある。

そんな影はどこにもないと思ったら、自分の後ろにできているだけかもしれない。
今度こそない、と思ったとき、周りは夜かもしれない。

でも自分は確かにいる。

自分のことなんて、きっとどこまでいってもわかりきることなどないのだ。

わかりきることのゴールは、地面に映るか影をいつも完璧に把握していつでも踏めるぞ、と思える自分になることではない。

影が出来て、それは見えないときも出来ないときも確かに自分はそこにいる。
そういう環境の中に確かに自分が存在するとわかるだけ。

そんな気がする。

わからないままでいい

自己理解になにひとつ絶対なんてない。

絶対解に身を委ねるときこそ、人はきっとそこに依存しているし、見えないものを同時に抱えている。

自分の存在を理解したいなら、自分というフィルターを通して周囲を見て聞いて感じて、それが自分の中を巡りめぐって、その末にアウトプットしていくだけだ。

その過程は時に単調でウキウキなんてしないかもしれない。
これが自分!なんてスッキリしないかもしれない。

でも、そのわかるとわからないとの間で確かに自分の足の踏み込む感覚を実感して歩いていくほうがよほど大切な気がする。

作家のサン=テグジュペリの「人は関係の結び目にすぎない」という言葉を思い出した。

人との関係の中で、わかる、わからないということの中身は変化していく。
そう考えれば、確かに私という存在はわかるとわからないの間、関係の結び目にあるんだ。

なんだか小難しくてきちんと伝わる言葉になっていない気がするが、私自身は妙に納得した。自己完結とはなかなか自己チュー(苦笑)。

これからも人との関係が変化すれば、自分の中での新たな発見があり、同時にわからないことも出てくるだろう。でもその間に私の存在は確かにある。

大丈夫。わからないままでいい。わからないままにする力も大切。

だからこのまま進もう。

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