スキを表明する力に憧れる
自分の内側覗きという習慣
誰にでも、
これは好き、これは心地いい、という感覚がある。
ネットでたまにミニマリストさんやシンプリストさんの記事や動画を目にする。
ものが少なくて、シンプル。
スッキリ片付いて、でも自分のスキはしっかり確保。
そんな生活スタイルに、いいなあ、羨ましいなと思う。
そもそも、そういう自分の生活ぶりをネット上にあげていること自体に、すごいなあと思ってしまう。自分には到底出来ない。
単純に憧れる。
確かに私にもスキもキライもある。
なのに、この憧れの感覚。
なんだろう??
ちょっともやもや。
そう思ったとき、自分と向き合う。
自分の内側覗きのチャンス。
今の私にとても大切なことだ、
最近の私は、自分の内側を覗きにいくことがかなり習慣化してきているようだ。
私が憧れているのは表明力だった
実は私はそれほどたくさん物は持っていない。
とはいえ、ミニマリストさんシンプリストさんにはまだまだ遠い。
それで憧れるだろうか??
いやいや。ちょっと違うような気がする。
この憧れは、自分はこれがスキ・キライとはっきりと決めていることに対する憧れだ。
いや、そのもっと先かもしれない。
この憧れは…
スキ・キライと認識したその先だ。
スキ・キライと思ったことを自分の外の世界に表明することに対する憧れ。
そして表明するときに見え隠れする、自信に対する憧れだ。
〝こんな理由で◯◯を手放しました。〟
〝◯◯のこんなところが好きで、ようやく手に入れました。〟
スキな理由。キライな理由。
その理由の表現スタイルもシンプルで無駄がない。迷いもない。
真っ直ぐ自分の思いを外側に伝える。
生活スタイルというより、その表明力に憧れているんだ。
そう思って再び自分の内側に戻るとき、やっぱりお決まりの、自分の育ちの影響に思いがいってしまう。
これは避けられないこと。
私には、自分のスキとキライを表明してきた記憶が相当幼いとき以外ない。
ほんの少しでも自分の感じたことや思ったことを表明するなら、踏みつけて壊された。もしくは暴言を浴びて全否定。
全ては自分を守り尊重してくれるはずの家庭内で起こったことだった。
何年も何年も続くうち、自分で何がスキかキライか、一瞬わかっても、ほぼ自動的に手放す癖がついてしまった。
自分のスキ・キライを表明しようと思ってずっと手にしていたなら、いつ安心安全が脅かされるかわからない。そんな恐怖に襲われていたと思う。
いつも自分の育ちとその影響に気づきnoteに書き始めるとき、自分でもまたか、と思い、がっかりしてしまう。
それでも同時に、私は自分で内側を覗き、この一生モノの影響に気づくたびに、確かに傷ついた自分の一部を癒し続けなくては、と思う。
地道な作業で自己肯定感を上げていく
今は嵐は去って、安心安全が脅かされる感覚はほぼない。
それでも、いつの間にか身についた生き癖がたくさん残ってしまっている。
だから、スキ・キライが出た後、それを即手放すことはしないまでも、表明するという、一歩先に行かない。
表明して、握りつぶされたら?罵声を浴びせられたら?
側から見れば妄想にも近いであろう不安が襲う。
襲ってくる感覚を日頃自覚なんてしてないけど、今こうして見つめていくと、そういうことだった、と再認識できる。
過去の傷つきがある。自己肯定感も低い。
分かりやすい表現を使うと、ずいぶん簡単になんとかなってしまいそう。
でも、傷ついた自分を最終的に癒せるのは自分だし、癒したいと思わなくては始まらない。それは言うほど簡単ではなく、人の助けは借りても、委ねるものではない。
日々の生活には自己肯定感の、砕かれた塊が小さな小さなかけらとなってあちこちに残っている。
かけらをひとつひとつ生活の中で見つけていって、元に戻す作業を丁寧にしていかなくてはいけない。
なんと気が遠くなるような作業だろうか。
でもそれが丁寧に生きること、自分を大切にすることなら、こんな大切なことがないんだろうと思う。
ここに、自己肯定感の低い私が、表明する力のない私が、noteで肯定感がないことを表明しているという事実がある(笑)。
ミニマリストさんシンプリストさんみたいに、誰がなんと言おうとこれいい!って勢いはまだまだないけど、それでもすごい進歩、いや進化だ。
自己肯定感は思っているよりも上がってきているのかもしれない。
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